2010年09月27日

◇ 参、 御予約承ります



「ホントに大丈夫ですか? ゆうべ、寝てないんでしょう」

 隣を歩くユーアが話しかけた。夜が明けて陽が昇り、俺はユーアと一緒に街を歩いていた。

 買い物など別に俺だけで事足りるのだが……。どうも俺は一人になるとシリアスで暗ぁい思考に走る傾向にある。こうやってユーアと他愛もない会話でもしているほうが、精神的にもいい。そう思って彼女を連れ出したのだ。彼女は黙ってついて来た。ホタルは麒麟亭で留守番している。

 ホタルと言えば、朝飯の時に妙な事を口にしていた。

「これ全部、僕一人で食べていいの?」

 目の前に並べられた皿を見ての台詞である。断っておくがそんな豪華なものではない。いたって庶民的な食事だった。

 いったいどういう扱いを受けてきたんだ? 俺はそう尋ねた。

「別に食事の質は悪くなかったけど、量がさ……。ひもじい思いをさせられたわけじゃないけどぉ、やっぱりスタイルで人々に与える印象って変わるから、体型には気を遣わされるんだよね」

 それが芸人の生き方なのだろう。俺は勝手にそう納得した。

 たとえ十代の子供にだって、それぞれの人生があるものだ。そう、ユーアにも……。

 俺はちらりと横を見た。ユーアはそこにいない。彼女はやや後方を、早足で追ってきていた。

「あ……」

 俺は気付いた。ついつい、いつもの自分のペースで歩いていたのだ。

「――悪い」

 ユーアに合わせるため、俺は道の真ん中で立ち止まった。

 追いついたユーアは、少し息を切らしながら不思議そうに俺を見る。

「え? 何が悪いんですか?」

「そうやって、いちいち俺のわがままに付き合うことはないんだぞ」

「なんですか、突然……」

 ユーアはいつもの、わずかな寂しさを伴った笑顔を見せた。

「私は、自分の好きなようにやってるだけですから」

 …………。

 その言葉と笑みに、何かが融かされていくように感じた。

 認めざるを得ない。

 俺が見たがっていた平穏な夢をブチ壊しにして、唐突に転がり込んできた娘。俺に、痛い事実を突きつけた娘。けれども、これで良かったのかも知れない。

 恋だとか愛だとかいった感情とはもちろん別物だ。俺にそんなものを抱く資格はない。

 ただ、俺の過去を知りつつ、それでもなお側にいてくれる人間――。

 悪くないのかも、知れない。

「ユーア」

 短く彼女の名を呼び、彼女の細い肩に手を延ばしかけて、やめる。

「どうしたんですか? リオマさん」

「いや、なんでもない」

「……ヘンな人」

 俺は何も答えずまた歩き出した。

 沈黙を保ったまま、二人は並んで歩いていた。

――と、何やら行く手が騒がしくなった。目の前に人だかりが出来つつある。騒動の舞台は、ラディッシュ亭。十年ほど前に建てられたこの街唯一の宿屋だ。

 宿屋で起こりそうなトラブルと言えば……宿賃を踏み倒した、朝になったら客が死んでいた、荷物が盗まれた、客同士が喧嘩した、あるいは、満員でもう客を泊められなくなっ た……。

 嫌な予感がした。

「お願いです、お金なら幾らでもお支払いします! 泊めて下さい!」

 歳の頃、四十ほどの男が、地面に額をこすりつけて懇願していた。どうやら予感が的中したようだ。

「ちょ、ちょっと、そんなことされても駄目なものは駄目なんだよ」

 宿の主人も困った顔をしている。

「妻が身重なんです! 野宿しろとでも言うのですか!」

「だからね、泊めてあげたいのはやまやまなんだけどさ……」

 男の近くに彼よりも少し若い、お腹の大きな女性が立っているのに気付いた。彼の妻だ ろう。その女性は何故か目を閉じたままで、心配そうに二人のやりとりを聞いていた。

「お願いします!」

「しつこいね、あんたも……いいかげんにしてくれないと、しまいに怒るよ」

 早くも気の短さを顔に表しながら主人が言う。俺はユーアの顔を覗き見た。

――予想どおりだ。気の毒でたまらない、といった様子で男に視線を注いでいる。また『病気』が始まったようだ。次の台詞は想像がつくぞ。賭けてもいい。

「リオマさん、あの人……」

 ほら来た。

「絶対に駄目だ」

 ユーアの先を制して言う。

「可哀相じゃないですか。麒麟亭で泊めてあげ――」

「たりは絶対にせんぞ」

 言葉を途中で遮る。いくら可哀相でも、次から次へと厄介事を背負い込む羽目になった酒場の主人よりはマシだろう。

「リオマさんってば」

「さあ、さっさと買い物を済ませて帰ろう。そうだ、昼飯は何にしようかな」

 俺は人垣をかきわけ、先を急ごうとする。ユーアが服の裾を掴む。

「お前なぁ」

 振り返った俺の耳に、男と宿屋の主人とのやりとりの続きが聞こえてきた。

「せめて、せめて妻だけでも……」



「ウチは今、お沙邑尉(さむらい)様の御予約で一杯なんだよっ! よそをあたっとくれ!」

――沙邑尉(さむらい)だと?

 俺は静かに言った。

「ユーア……気が変わった……」

「え?」

「そういう事情なら話は別だ。何十人連れだろうと泊めてやる」

 沙邑尉(さむらい)どもに苦しめられている人間を見捨てては行けない。俺はその男の前に進み出た。

「おい、あんた。良ければ俺のところに来ないか」

 男の顔がパッと輝く。

「――ほ、本当ですか!? かたじけない!」

「俺の家は麒麟亭っていう酒場だ。あんたらぐらいなら泊める余裕はある。すでに二人、先客もいるしな」

「ありがとうございます……ヴィネ、良かったなぁ」

 ヴィネと呼ばれた彼の妻は、やはり目を閉じたまま頭を下げる。その動作を見て、ようやく俺は思い当たった。

 この女性は、盲目なのだ。

「リオマか。助かるよ」

 主人が言う。厭味の一つも返してやろうかと考えたが、思いとどまった。こいつに罪は

無い。沙邑尉(さむらい)の予約を断ったりすれば、後でどうなるかわからないからだ。

 ユーアが近付き、男を立たせてやる。ちらりと妙な表情で俺を見た。

 絶対ヘンだわ。悪いものでも食べたのかしら。

 そんなことを考えてるに違いない。





「姓は(ぼく)、名はトイロゥと申します」

 麒麟亭に落ち着くと、男はそう名乗った。

「号を春雪と申しまして……まあ、絵でなんとか生計を立てております者です」

「シュンセツ!?」

 ユーアが驚きの声を上げる。

「あの『バンライ三景』や『ディヴィナ卿の肖像』なんかを描かれた、あの、シュンセツさん!?」

「有名なのか、このおっさん?」

 あいにく絵には興味は無い。貧乏人には関係のない世界だ。

「有名も何も……百年に一人と言われる天才画家ですよ」

 シュンセツはそれを聞いて、照れたように笑った。

「いや、それは噂の尾ヒレというやつで。せいぜい百日に一人の才がいいとこでしょうなぁ」

「そんな、ご謙遜を」

 ユーアは懐かしそうに言う。

「私の住んでいた家にも、シュンセツさんの絵がありました。子供心にも素敵な絵だなと思って、良く眺めてたのを憶えてます……」

 何気ないふりをしつつ、ユーアの言葉尻を冷静にチェックしてみる。やはり彼女は、そこそこ金のある家の生まれのようだ。

 シュンセツは、妻の手を取った。

「そうそう。お気付きでしょうが、妻は昔、目の病を患いまして……おまけに今は普通の身でもなく、何かとご面倒をおかけすると思いますが」

 シュンセツはヴィネの腕を右に引いた。彼女は俺に向かって頭を下げる。

「よろしくお願いします……」

 俺がどの辺に立っているかを、合図したのだ。ごく自然な手慣れた動作だった。これが、夫婦の絆とでも呼ぶべきものなのだろうか。

 シュンセツは事情を俺たちに話す。

 結婚してずいぶんになるが、二人には子供がなかった。半ばあきらめていたのだが、それが今年、ようやくヴィネが身ごもったのである。

 ここでしばらく、シュンセツはその喜びをえんえんと語り続けた。流石にヴィネが制止する頃には俺は半分眠っていた。

 ともかく、住んでいた都からかなり離れたヴィネの実家で出産しようという話になったらしい。ところが馬車の切符がうまく取れず、予定以上の長旅になってしまったそうだ。この先生、なかなかの粗忽者である。

「で、見たとこ、臨月も近いんじゃないか?」

「はい。前の街のお医者様の話では、もう今週にも……」

 ……無茶苦茶しやがるな。旅なんぞ中止すりゃいいのに。

「いや、それがここだけの話ですが」

 その疑問に、シュンセツは俺の耳に口を近付けて答えた。

「実家にいる彼女の母親というのが、これまた凄まじくおっかない人でして」

 俺は思わず腹を抱えて笑った。しかしまあ、納得はいく理由だ。

「――初孫の顔を見るまでに自分が死ぬようなことがあったら、私にとり憑いて祟ってやる、なんて言うんですよ」

 横で聞いていたヴィネも苦笑いを浮かべる。

「ここまで来て引き返すよりは、一日も早く向こうに着こうと思ったんです。が、確かにこれ以上は無理をさせられませんな」

 シュンセツは妻の髪を愛おしそうに撫でた。

「おばさん、赤ちゃん産まれるの?」

 ホタルが目を輝かせて尋ねる。

「ええ、そうよ。“お嬢ちゃんみたいに”元気な子だといいんだけど」

 一瞬その場の全員が戸惑い、そしてその言葉の意味に気付いた。

「僕……男の子だよ」

「あら、ごめんなさい! 声や雰囲気でつい女の子だと思っちゃったわ」

 ホタルは子供ながらに複雑な顔をしていた。無理もない。

「ところで、この街でも何かが起こっているようですね」

 ポツリとシュンセツが言った。

「何か、とは?」

「宿屋を埋め尽くすほどの沙邑尉(さむらい)がこんな街に集まって来ている。王と国に仕える彼らが……。馬車が出なくなったのも、その辺に関係するのかも知れません」

 言われてみればその通りである。そして――。

 ギルドも、動いている。

「『この街でも』ってことは、他の所でも?」

「ええ。表立った騒ぎはありませんが、前の街でもやはり町中で沙邑尉(さむらい)を見かけたり……ここ近日、どうも妙です」

 ここ近日。確かに麒麟亭でも色々なことがあった。ユーアが来て、ホタルが来て、そして今度はこの画家先生だ。

「一つ、心当たりと言えば――もうすぐ、第十八代王女妃殿下が成人なされるんですよね。ひょっとしたら、その関係で」

「……王女か」

 王族は十五で成人と見なされる。そしてそれまでは民衆の前に出てくることはなく、王宮の中でひっそりと育てられるのだ。大切な世継ぎたちを守るためと、ある程度の威厳と風格が備わって初めて外に出すことで王族の権威を高める意図からである。

 また、王族は名前を持たない。固有名詞など必要のない、絶対的な一族なのだ。王族たちはただ単に『国王』『王子』などとだけ呼ばれる。第十八代王女とは、王国が誕生してから十八人目の王女という意味である。いずれ女王と呼ばれるようになる可能性もあるが。「王女様には数年前、国王陛下の御肖像をお描き差し上げるために王宮に参じた際、拝見申し上げましたが……それは愛らしくお優しいお方でした」

 シュンセツは敬意を込めてそう言ったが、俺は素直に受け入れることは出来なかった。昔の如く激しい感情は抱いていないけれど、王族を憎んでいることに変わりは無い。

 大体、王族など美しいのが当たり前なのだ。

 物語なんかに登場する王子や王女はたいてい美形だが、これは決して御都合主義では無い。考えてもみろ、一国の王ともなれば国中の美女をよりどりみどりだ。淘汰を繰り返すうちに王族や貴族が美男美女だらけになるのは自然の法則である。そうして他国の王族や貴族相手にまた結婚しまくるから、この循環は革命でも起こらぬ限り続くというわけだ。

「シュンセツさん、お部屋の用意が出来ました」

 話の間二階に行っていたユーアが、降りてきて声をかける。

「では、また後ほど……」

 シュンセツはヴィネの手を引き、ゆっくりと階段を昇っていく。

 ホタルが小さな声で言った。

「リオマお兄ちゃん。僕、今日は踊れないかも知れない」

 何だ、急に。

「ちょっと……調子が、悪いんだ」

「ホタルくんも、悪いものでも食べたの?」

 俺もホタルも、ずっとお前と同じものしか食ってないぞ。

「そんなんじゃないよ」

<小さいながらも、あの先生同様アーティストやからな。気乗りがせん日もあるやろうさ、そら>

 サキョウが言う。今朝もいきなり口を開いて(こいつの場合、比喩的表現だが)ホタルを恐怖に陥れたことを思い出した。

「サキョウ、突然喋ってヴィネさんを驚かせるんじゃないぞ。大事な体なんだからな」

<任しとき。なんつっても、無口でニヒルなんが売りやから>

 ……はいはい。











 その夜。

 いつも通りの麒麟亭の喧騒。

「すまんな。こんなやかましい所で食事させて」

「何をおっしゃる。こうして泊めて頂けるだけでも感謝の言葉がないというのに」

「ええ。それに、こういうのも楽しいですわ」

 シュンセツたちとそんな会話をしていると、鍛冶屋のジュトウが幾人かの連れと共に入って来た。

 ジュトウは最初に俺を見、次にシュンセツを見、そしてヴィネのお腹に目をとめた。

 口がニヤッと歪む。

「おい、リ……もがッ!?」

 俺が投げた胡椒入りの小袋がジュトウの口を塞ぐ。

「ぐぶげはぁっ! の、喉が、や焼けるぅぅ!!」

 ユーアはもう何も言わずに、水を汲んだコップと雑巾を持ち出した。そう、俺に対しては皮肉なぞ言うだけ無駄である。

「げほげへっ、ま、まだ何にも言ってねぇだろっげほ!」

 コップの水を飲み干してジュトウがなじる。

「全部言ってりゃ胡椒じゃ済まんぜ」

 夫妻が怪訝な顔で俺を見た。

「何なんですか、いったい……?」

「いや、ちょっとしたいつもの余興だ。気にする事はない」

「――それはそうと、リオマ」

 近くの席の客が話しかける。

「昨日の踊り子ちゃんの出番はまだかい?」

「ああ。今日はどうも都合が悪いらしい」

『ええー!?』

 俺の言葉に、客たちは一斉に立ち上がった。

「嘘だろっ。俺はそれだけを楽しみに来たんだぞ。そうでなきゃ二日も続けて来るか、こんな店」

 ……言ってくれるな、おい。

「おひねりだってタップリ用意してきたのに」

「まあ、運が悪いとあきらめてくれ」

 と、やおらシュンセツが立ち上がった。

「えー、皆さん、まあ落ち着いて」

 いきり立つ客たちを見渡す。

「その踊り子さんに及ぶかどうかはわかりませんが、ここは一つ、私が皆さんの似顔絵を描いて差し上げるというのはどうでしょう」

――つくづくお人好しの先生だが、ともあれこの場は助かる。

「このおっさん、高名な画家だそうだ。今日はそれで我慢してくれ」

 シュンセツは二階から道具を取ってきて、一人ずつ順番に描き始める。

 流石に大したものだった。後ろで見ている連中からも声が漏れる。

「……あなた、先に上に行ってますわ」

 ヴィネがそう言い、ゆっくりと席を立つ。付き添おうとしたシュンセツをユーアが押しとどめた。

「私が行きます。シュンセツさんは絵を続けていて下さい」

 ユーアはヴィネの手を引き慎重に歩きだした。

 そうこうするうち、一人目の絵が完成する。

「おお!」

 受け取った男は、感嘆の眼差しで絵を眺め、押し戴いた。

 そんな風に、次々と似顔は完成していった。

「……やっぱり、何度見ても凄いよなぁ」

 最初に描いてもらった男が呟く。

「タダでは受け取れないよ」

「そうとも、これには正当な報酬を支払わなきゃ」

「と、言うわけでぇ……」

 ジュトウが皆の前に進み出る。

「そーれ、投げろ投げろ!」

 おひねりを一斉に俺にぶつけ出す客たち。降りてきたユーアも、面白がって加わる。

「やめんかっ、貴様ら!」

「いつもの仕返しだ! 喰らえ!」

 畜生、いじめられっ子か俺は!?

 コインの雨を、俺はフライパンで受け流す。

「……!……!」

 その、金属同士が激しくぶつかり合う音の中に、誰かの叫びを聞いたように思った。

「おい、ちょっと静かに!」

 俺の声の真面目な響きに、連中は大人しくなる。
「リオマお兄ちゃんっ!」

 ホタルが階段を駈け降りてきた。

「おばさんが、お腹を押さえて、苦しいって……!」

「え、まさか!?」

 ユーアが息を呑む。

「やっぱり、何か悪いものでも食べたのかしら……」

「この非常時にボケてる場合か。ユーア、シャティの家に行って事情を説明してきてくれ!」

「え?」

 ちっ、話してなかったっけ。

「あいつの旦那は、医者なんだよ。そうだジュトウ、お前シャティん家知ってるな、一緒に頼む!」

 ヴィネの事を知らないジュトウと道を知らないユーアは揃って飛び出して行った。

 二階に急ごうとした俺は、何が起こったかわからず立ち尽くす客たちに気付いた。

「おい、お前ら。今日はもう閉店だ。とっとと帰れ」

「何ぃ! まだ一杯しか呑んでねぇんだぞ」

「そうですよ。それに私はまだ絵も描いてもらってませんよ」

「これからがいいとこじゃないか」

 ……この連中ときたら、まったく……。

「――今日の勘定はナシでいい」

 俺の言葉を聞くや否や、彼らは一斉に叫んだ。

『さあ、みんな帰ろうぜ! 邪魔しちゃ悪いしな!』

 ……。

 階段を昇ろうとして、俺はもう一つ忘れていることを思い出した。

「シュンセツ先生、何処に行ったんだ?」

 彼は床に仰向けに倒れていた。

 隣にコインが転がっている。何代か昔の王の顔が刻まれた銅貨だ。

 さっきの騒ぎのとばっちりを受けたらしい。

 額にしっかりと痕が残っている。

「何やってんだろうね、この人は……」

 左右が反転した国王の横顔が、あざ笑うように貼り付いていた。











「はぁ~い! お姉さんの登場よ、リー坊!」

 下でふざけた声が聞こえ、俺は軽い頭痛を覚えながらも立ち上がった。

 意識を取り戻していたシュンセツにヴィネのことを任せ、階下に降りる。

「シャティ姉に用はねぇよ。俺はノーヴィを呼んだんだ」

 飄々とした風情の男が後に続いて入ってくる。シャティの夫、ノーヴィだ。

「こんな時間にすまないな。ノーヴィ」

「いえいえ、おかげさまで月夜の散歩を堪能させてもらったよ。今宵の綺麗な月を見ていると、何だか人の生き死になんて、ちっぽけなものに思えてくるね」

 不安を誘う台詞だが、この旦那は評判の名医である。

「さっそく患者さんを見るとしようか。シャティ、助手を頼むよ」

 結局、俺とユーア、シュンセツが下に残されることになった。ホタルはややこしいので寝かせてしまった。

 シュンセツ先生はうろうろとひたすら歩き回っている。

「鳴呼、ヴィネ……」

 ぴたり、と立ち止まり、テーブルを拳で殴りつける。

 ……こらこら。

「いつも、こうだ。いつも私は、何もしてやれない……」

 そんなシュンセツの姿を見てユーアが切なげに目を伏せた。

「――若い頃は、自分には無限の可能性があると思っていた。絵によって、全ての人に感動を伝えられると信じて疑わなかった。

 だがどうだ、どんなに名声を得ようと、どんなに素晴らしい絵を描こうと、ヴィネには――この世の中で一番見て欲しいと願う人には、決して感じてもらえない!」

 俺はハッとした。天才画家と、光を失った妻。とてつもなく深い隔たりを、この二人は補って生きてきたのだ。

「しょせんそれが絵画の限界なのだ! 私が半生を捧げた道のな!」

「落ち着けよ、おっさん」

 シュンセツはそれきり黙りこくり、徘徊を続ける。

 うーん。何て気まずい雰囲気だ。

「ユーア、そう言やジュトウの奴はどうした?」

 話をそらそうと試みる。

「そのまま帰っちゃいましたよ」

 彼女もほっとしたように言う。

 だが、それきり話題は続かない。

 上の階で、ドアの開く音がした。シャティが降りてくる。

「どどどうですか、よ様子は!?」

「今夜中には、産まれるわね」

 それを聞き、シュンセツはその場にへたりこむ。両手を合わせ、祈りを捧げた。

「ああ、霊峰カムイよ……ヴィネと子供を、お守り下さい……」

「今の内に休んでおいたほうがいいわよ、先生。これから何があるかわからないんだから」

 あまりデリカシーの感じられない物言いだが、こういう時のシャティには妙な説得力がある。シュンセツはよろよろと立ち上がり、椅子の上に崩れるように座った。

「あ、ユーアちゃん。ちょっと私の代わりに上に行っといてくれない? リー坊はお湯を沸かしといて。出来るだけたっぷりとね」

 ユーアは素直に従う。一方俺は――火を起こしながらシャティに尋ねた。

「何か、話でもあるのか?」

 あのくらいで疲れたりするようなタマじゃない。ユーアを上にやったのはそれなりの理由があってのことだろう。

「別に大した話じゃないんだけど……」

 そこらの椅子に腰掛けてシャティが言う。

「あんたが産まれた日のこと、思い出しちゃってね」

 足を組み、静かに笑うシャティ。

「リオマは、お母さんを憶えてないわよね」

「ああ。俺が二つの頃だろ、死んじゃったのは」

「本当は、私が母親代わりになってあげなくちゃいけなかったんだろうけど。私はあんたの『姉』でいることで精一杯だったから……」

 シャティはぼんやりと宙を見つめながら呟くように語った。

「で、結論は?」

「リー坊が早く落ち着いてくれないと、お母さんに申し訳が立たないってこと」

 話が良くわからない。

「にぶい子ねー」

 ようやく、いつもの悪戯っぽい表情に戻る。

「あんた、まだユーアちゃんと別々の部屋で寝てんのね。お姉ちゃんガッカリ」

 ……あのなぁ。

 何かと思えばそういうことか。シャティは事情を知らないからそんな呑気なことを言ってられるんだ。

「あの子は、幸せに慣れてないのよ。私にはわかるわ。いつも強く抱きとめようとしすぎて、壊してしまう……」

 俺はいいかげんに辟易して、テーブルの上でまだ祈ってるシュンセツのほうに目をそらした。

「ちょっと、聞いてるの、リー坊? ユーアちゃんはいい子よ。あんたがしっかり守ってあげて」

「どうして俺がそんなこと――」

 俺は窓際に逃れ、夜空を眺める。

――確か、人は死ぬと天に昇って星になるって言い伝えがあったな。

 母さん、か。

 シャティも席を立ち、俺の隣に来た。

――だから、流れ星と共に産まれた子供は、大人物の生まれ変わりだとする伝説もある……。

 逃避している俺を引き戻すように、シャティが肩にポンと手を置いて言った。

「リオマは、簡単に潰れたりしないでしょ? もう一度言うわ、あの子を幸せにしてあげて。あんた自身のためにもね」





 じりじりと、時は流れていく。

「先生よ、そんなに気になるんならそばで見てりゃいいじゃねェか」

 不安を紛らわすべく、だろう。彼は紙に鉛筆で何やら絵を描いては、次々に丸めて捨て ている。

 資源の無駄遣いだ。

 足下にはゴミの山が出来上がっていた。ちりも積もれば邪魔となる。

「いやいや、それこそ精神が耐えられなくなるに決まっている。ああ、どうして私はこんなに気が弱いんだろう……」

 くしゃくしゃ。またゴミが増える。

 その寸前に、彼が描いていたものが目に入り、俺はつい頬をゆるめた。

 赤ん坊の顔。想像画。

「ちょっと様子を見てきてやるよ」

 立ち上がり、二階へ行く。

 ヴィネの呻き声が聞こえてくる目的の部屋の手前で、急にドアが開いた。

「ホタル。まだ起きてたのか?」

 だが目はとろんとしており、完全に寝ぼけているようだ。

 ろれつのはっきりしない、妙な口調でホタルは言った。

「今しがた、流れ星を見ましたわ。こう、すうっと、とっても綺麗……」

 女言葉?

「はいはい。今はお芝居をする必要はないんだ、ホタル。大人しく寝てな」

 ホタルは枕を抱えたままトコトコと部屋に戻っていく。

――と、その時。

 ひときわ大きないきみ(・・・)を最後に、ヴィネの声がやんだ。

 数呼吸置いて……元気な産声が麒麟亭に響く。

「ううう産まれたっ、ヴィネ、ヴィネっ!」

 シュンセツが鬼にでも追われているかの勢いで階段を駈け昇って来……そして最後の段に足をひっかけ、床に思い切り額をぶつけた。

「お、おい、大丈夫か」

「当たり前です! こんな大事な時にまた気絶などしてられますかっ!」

 ガバッと跳ね起き、扉に走り寄る。

 いやはや、父は強し。

 扉が開きノーヴィが出て来た。

「ふう、難産だったけど奥さんは無事だよ。ご安心を」

「ででで、こっ子供は――」

 ノーヴィは顔を曇らせた。

「それが……残念だけど……」

 みるみるシュンセツの顔が蒼白になる。やばい。卒倒するぞ、ありゃ――

「父親そっくりの男の子でね……奥さんに似てりゃ美形だったろうに、残念だねぇ……あれ、シュンセツさん? そんな所で寝られちゃ困るよ、ねえってば……」











 外に出た俺は、大きく息を吸い込んだ。

 いつの間にか夜は明けている。

 真っ白な光が、やけに眩しかった。

 目を閉じ、大きく伸びをする。

人が死ぬところは、反吐が出るほど見てきた俺だが……。

「……人が産まれるのに立ち会ったのは、初めてだな」

 朝日の中で、俺はそう呟いた。

 シャティとノーヴィの似た者夫婦は自分たちの家庭へと帰っていく。

 その後三日間、麒麟亭は特別休業した。

「シュンセツさん、馬車の手配が出来ました!」

 ユーアが駈け込んで来る。

「もう行くのか。まだ休んでいったほうがいいんじゃないか?」

 ヴィネの体調が良くなり次第、彼らは旅立つことにしたのである。

「そこまでご迷惑はおかけ出来ません。姑も怖いですし……」

「旅をしながらの子育てなんて、大変でしょう」

 ユーアの言葉に、ヴィネはニッコリ笑ってみせる。

「大丈夫ですわ。私にはこの子の顔を見ることは出来ないけど……この子の命、この子の心は感じられます」

 抱いた赤子の、玩具のように小さな手を握りしめる。

「だって、最愛の夫と私の子供なんですもの……」

 赤ん坊は不思議そうに母の顔を見上げ、空いたほうの手でヴィネの頬を撫でる。シュンセツはそれを目を細めて眺め、言った。

「リオマさん。私は間違っていたようです」

 最初は何のことだかわからなかった。

「絵画の限界などと偉そうなことを言って――結局私は自分の限界を認めてしまうことが怖かったんだ。でも、もう大丈夫です。今は、ヴィネにも感じ取ってもらえるような絵が描けるかも知れない、そんな気がしてるんです」

 彼は妻の肩に手を回し、つながれたヴィネと赤子の手の上に、自分の手を重ねた。

「それに、この子は……これまでのどの作品にも優る、私の最高傑作ですよ」

 シュンセツは照れたように笑った。

「じゃあタイトルは――名前はもう決まってるのか?」

「キリン、と言うのはどうでしょうね」

 俺の顔を見るシュンセツ。

「――光栄だね」

「本当はもっとちゃんとしたお礼がしたいのですが。そうだ、いずれいい絵が出来ればお送りしましょうか?」

 俺はその申し出を辞退した。

 この親バカ先生のことだ。この子、キリンの肖像を毎年毎年送りつけるぐらいのことはやりかねない。

「バイバイ」

 ホタルが手を振る。

 そうして、彼らは去っていった。

「あの子、幸せに育ちますよね」

 寂しげなユーアの呟きが胸の中で反響し、昨夜のシャティの言葉にぶつかって止まった。

 幸せにしてあげて……リー坊が早く落ち着いてくれないと……。

 家族。

 俺にはそんなものを作る資格はないだろう。

 若い頃も同じことを思ったことがある。シュンセツと違い、俺は自分の可能性なんて、 これっぽちも信じられなかった。自分の存在は周りを不幸にするだけだと思っていた。

 その思いは今も続いている。だがその頃と決定的に変わってしまったことが一つある。 


『そんなことはないわ』 ――そう言ってくれる人は、もういない。



Posted by 白川 嘘一郎 at 21:50│Comments(0)
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