2010年09月27日

◆ 弐、 呑んで踊って一刻半



 それでもまた、朝は来る。全ての人々に平等に。当然のようにまた、夜になる。全ての場所で公平に。

 ユーアはいつものように明るかった。どんどん新しい仕事を覚え、麒麟亭に溶け込んでいく。怖いくらい順調だった。

 順調なまま数日が過ぎた。

「リオマさん。私、買い物に行ってきますね」

「ああ、頼む」

 ずいぶんと健康的な生活になった。売り上げだって以前と比べ物にならない。

 正直言って、悪くなかった。

 ユーアはいつまでここにいる気だろう。俺は何も聞かないし、相手も何も言わない。そんな状態が続いたままだ。ただ、俺にはあの晩の一言がまだこびりついている。

 呆っと時を過ごしていると、足元がかすかに揺れた。しばらく続いたそれは、やがて突然ピタリと止まる。

 驚くことはない。『時震』だ。

 霊峰カムイの神秘的な活動により、毎日決まった時間――正午――に小さな地震が起こる。我々の時計はこれを元に定められているのだ。

(ユーアが帰って来たら、昼飯にしよう)

 俺の思いを読み取ったかのように、扉が開いた。だが、入ってきたのはユーアではなかった。『三人組のガラの悪そうな男』を店員にした覚えはない。

「悪いな。今は営業時間外なんでね」

「こっちも悪いが、酒を呑みに来たんじゃない」

 三人はさりげなく俺を囲むように散らばり、正面の一人が出口を塞ぐように立った。

――この動きは素人じゃない。

 ギルドの者だろうか。どうしてまた、今頃……。

「何の用だ」

 俺は硬い声で尋ねる。

 忘れよう忘れようとしているうちに、平凡な暮らしに押し流されて、それほど大した事ではなかったんじゃないかと思い始めていた頃だった。だが、そう簡単にはいかないようだ。

 現実は甘くない。そしてそれ以上に厳しいのは、その事を知っている人間の抱く夢だ。

 訪れた事態を前にして、ようやく俺は自覚した。俺が望んでいたのは結局、『何事も起こらない日常』というごくささやかなものだったのだ。

 その気持ちとは裏腹に、いまだに手離すことが出来ないでいた“武器”。俺は密かに、それがいつでも使える状態にあることを確認した。

「……手荒な真似をする気なら、人を呼ぶぞ」

 できればもう、あんな技は使いたくない。

「なぁに。大人しく答えてくれれば何もしない」

「女を探しているんだ。若い女をよ」

「知ってんじゃねえのか? 酒場ってのは街の情報の宝庫だからな」

 三人は練習でもしていたかのように割り台詞で言った。

 こいつら、俺が目的じゃないのか。ということは……若い女……ユーアか?

「意に添えなくて残念だが、三つの理由でそれには答えられんな」

『三つの理由?』

 今度は三人が声を揃える。

「第一に、質問の意図がはっきりしない。単なるお遊びなら答える義理はないし、俺が迷惑をこうむるようなことを企まれていても困る。第二に、俺が知ってるだけでも若い女はごまんといる。そして最後に、人にものを頼む態度がなってない」

 俺の言葉に奴らはカチンと来たようだ。怒らせるような言い方をしたんだから当然だが。

「何だと」

「痛い目を見ないとわからないのか」

「馬鹿な奴だ」

 順番にそう言う三人組に、俺はこれ見よがしにため息をついた。

「どうしてそんな方向に論理が飛ぶんだ。『これこれこういう女をこれこれこういう理由で探している』、そう頭の一つも下げて言えば済むだろうが」

「たかが酒場の親父にそこまで言えるか」

「そんな口をきけるのも今のうちだぞ」

「腕の一本や二本、なくなっても恨むなよ」

 正面の男が剣を抜き払い、こちらに突進する。

 やれやれだ。

 それどころではないのはわかっていたが、俺は深い自己嫌悪を感じた。

 何だかんだ言いつつ、挑発したのは俺だ。こういう格下の馬鹿どもを見ると、抑えが聞かなくなる。

 俺はやはり、昔のままなのだ。あんな事があっても、変わってはいない。

 ただ、眠っていただけだ。

俺は懐に手をやり、“それ”を引き抜く。

 俺が腕を横に払うのとほぼ同時に、男が床に倒れる。彼には、赤い点が光ったようにしか見えなかった筈だ。

 残った二人は、仲間の喉から生えたそれ――俺が投げつけたもの――を見つめる。

「朱塗りの針……?」

「まさか……」

 しばしの空白。

“赤蠍”(スコーピオン)!?」

「悪魔の如き腕を持ちながら、四年前に突然ギルドを抜けた暗殺針(アサッシン)……」

 またしても沈黙。

 まさかお前ら……その台詞が抜けてる部分は倒れた男の分か……?

 それはさておき。

「……うんざりだ」

 静かに、はっきりと俺は呟く。

“赤蠍”。確かに、一時期そう呼ばれていたこともあった。

「陳腐な名前のセンスに馬鹿げた形容。格好のいい闇の集団でも気取ってるつもりか知らんが、しょせんはただの人殺し。クズはクズだ」

 吐き捨てるように俺は言った。

「馬鹿な……」

「何故『あの男』が、こんな街で田舎酒場の主人なんぞやってんだ!?」

 …………。

「悪かったな。田舎酒場で」

 俺は一歩前に進み出る。呼応して男たちが後ずさる。

「先輩として忠告しておこう。酒場に目を付けたのは良かったが、聞き込みってのはもっと目立たず紳士的にやるもんだ」

 俺は倒れた男に目をやった。殺してはいない。即効性の麻痺毒だ。

「こいつにも後で教えとけ。家具などがごろごろしている屋内では、長い剣を使うのは不利だとな。足下がおぼつかないから剣に振り回されやすい上、椅子やテーブルに刃が突き刺さって抜けなくなることもある」

「お前が悪いんだ、こんな所に入ろうなんて言うから!」

「何、言ったのはお前だろう!」

 …………。

「いや、確か言ったのはこいつだ」

「そうそう、そう言えばそうだった。全部こいつが悪いんだ!」

 …………。

 聞けよ、人の話を……。

「さて、貴様らがここを出る方法は三つある。第一、俺を倒す。第二、俺に殺られて死体となって出る。そして最後は、金を払って客になることだ」

「客に?」

「どういうこと……でしょうか?」

 慣れない敬語を使いだす男たち。

「金さえ払ってもらえれば、客は客だからな。お帰りになるまで丁重におもてなしするさ。……ちなみに、早く選択したほうがいいぞ。その倒れてる奴、命に別状はないが長時間放っておくと脳に障害が残る場合がある。さっさと治療師の所に連れて行くんだな」

 二人は慌ててポケットをひっくり返し、床にコインをぶちまける。

「……営業時間外だから特別料金だぞ」

 彼らはさらに慌てて、倒れた男のポケットも探った。

「で、御注文は?」

「いえ……」

「それは別の機会に……」

 男たちは仲間をかついで出ていった。

「――またの御来店を」

 俺は軽く頭を下げる。

 面を上げた時、扉が開け放たれたままの入口に、真昼の眩しい日光を背にして誰かが立っていた。

 ユーアだ。

 床に描かれた彼女の影は、微動だにしなかった。

「……今の話、本当なんですか。リオマさん」

 乾いた声だった。

「どこまで聞いた?」

「外で……全部……」

 逆光で表情が見えない。

――とうとう知られちまったか。意外に早かったが。

「本当、だよ。言い訳で慰めてやることは出来るが……残念ながら、真実だ」

 影が揺れて、動いた。こちらに駈け寄る。

「どうして……リオマさんが、暗殺針だなんて……」

「十七の時、グレて家を飛び出した。そんなガキが生きていくために出来ることなんて限られている。スリ、サギ、泥棒、その道に入るまで長くはかからなかった」

 俺は淡々と答えた。

「何年かして、殺しを覚えた。リスクも大きいが、一番見返りの多い仕事さ」

「お金のために、人を殺すんですか!」

「ああ」

 ユーアは、目に涙さえ溜めていた。

「それ以外に何がある? 正義か? そんなものは相対的な、自分勝手なものだ。人間に、正義の名目で殺されてもいい人間を決める権利はない。まして、自分が殺していい側に立ったと思い込んだ時、人は限りなく残虐になる。だが、金さえ貰えばそいつはあくまでビジネスだ。俺は金のために人を殺すし、相手は金の力によって殺されたことになる。それが嫌なら同じく金の力なりなんなりで身を守ればいい。それが世の中の法則だろ」

 そうだ。そんな詭弁まがいの論理にすがりつきでもしなきゃ、殺し屋なんぞやっていけない。

「だからと言って、命を奪うことは……」

「じゃあ聞くが、お前さんは誰かを殺したいほど憎んだことはないのか? 誰かがいなくなってしまえばいいと思ったことは?」

 ユーアの言葉が止まった。そのままうつむく。栗色の髪が寂しげに揺れた。

「なら同罪さ。……自分で実行出来ないお前らのために、自分の手を汚してやってんだ。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはない」

「でも……でも、なにもリオマさんが……」

「しつこいな」

 俺はそう言った。しょせん、いつかはこうなるのだ。

 ずっと暗い店内にいた俺に、扉から差し込む光が眩しい。――それと、同じだ。

「素性も本名も知らない小娘に理解して貰おうとは、小人(ノーム)の髭の先ほども思わない」

 決定打、だったろう。

 彼女はくるりと背を向けた。一歩、二歩と歩み去る。

「ユーア……」

 一度だけつい、彼女の名を呼んでみた。そしてすぐに後悔した。

 けれども彼女は振り返らなかった。三歩、四歩……。

「こうするのが当たり前ですよね。人殺しと一緒に暮らすなんて、出来るわけがないもの……」

 五歩。

「…………」

 扉の所まで辿りついた時、彼女が何か言った。

「え?」

「――(りん)・ラクステイア。私の本名です」

 扉が閉められ、差し込む光が途切れた。

「……すまない」

 その言葉は、彼女には届かなかっただろう。













(リオマ……)

 声が聞こえた。ユーア? いや違う。

(また、ギルドと関わりを持つの……また、手の届かない所へ行ってしまうの?)

 ここは夢の中らしい。

(また……殺すの?)

 これは夢だ。さもなければ彼女が――サユミが現れる筈がない。

(忘れないでね……約束を……)

「忘れてはいない。忘れてなんか……!」

 ふと、目が覚めた。翌朝だ。

 全身にかいた汗が、まるで血糊であるかのような錯覚にとらわれ、俺は手の甲で強く額をぬぐった。もちろん見慣れた赤い色彩はそこには無い。それでも、両手がべっとりと血に濡れているような気がした。

<リオマ、あれで良かったんか?>

 サキョウが喋る。

「仕方ないだろう」

<ギルドが狙ってんのは、あの子かも知れへんで。それを放り出して……>

 俺はソファから起き上がった。

「“赤蠍”の元にいるよりは、安全だ」

<お前やったら、あの子を守ってやれるんやないか>

「よしてくれ。俺の針はそんな格好いいことには使えない。ただの人殺しの技だ」

俺が暗殺針だったことを知っているのは、今やギルドの上層部とサキョウだけだ。『仕事』においても、一度たりとも顔を見せたことはない。数瞬後に死ぬ相手以外には。

 ……いや、たった一度だけ、姿を見られたことがあったか。あれはとある街の成り上がり貴族を暗殺した時の事だ。前日の夕方、屋敷に下見に忍び込んだ折、裏庭で小さな女の子が毒蛇に襲われそうになっている場面に出くわした。思わず助けてしまったが、人殺しのサソリが毒蛇を刺したのだからお笑いだ。今はもう昔の話だが。

 外の風にあたりたくて、俺は扉を開けた。

 またもやそこにそれはあった。ボロにくるまれた物体。

 カラスが一声短く鳴き、風が髪を揺らす。

――ユーアだ。





 例によってソファを占領した彼女から少し離れて、俺は安酒を傾けていた。湧いてくる疑問を流し去るように。

 何故またここへ戻ってくる? 何故……。

「リオマ……さん……」

 目覚めたのか、背後で衣ずれの音と共に声がした。

「どういうつもりだ。あんな所であてつけがましく寝たりして」

「少し、一人になりたかったんです。でも他に行く所もないし……」

 ユーアの足音が近づく。俺は顔も向けずに席を立ち、彼女から離れようとした。

「人殺しとは、一緒に暮らせないんだろ?」

 彼女は小走りで俺の前に回り込んだ。

 一瞬俺と視線を合わせ、目をそらす。

「意地悪しないで下さい……」

 語尾がかすれた。

「私には、ここしか居場所がないんです。――たとえ、リオマさんが何であっても」

 固く握りしめられた彼女の拳。

「……俺が暗殺針だったと知ってる人間は、ギルドの連中とお前だけだ」

 ユーアの身体がこわばるのがわかった。

 俺はカウンターの上に置かれていたナイフを手に取った。

「お前を、殺すかも知れないぜ……」

 ユーアに歩み寄るが、彼女は動かない。

 ナイフを、彼女に手渡した。

「晩までにジャガイモの皮をむいといてくれ」

 ユーアの肩から力が抜ける。

「はい……店長」











 それからまた何日か経った。客たちにとっては、麒麟亭が一日休んだだけのことで、いつもと変わらぬ毎日である。ギルドもあれから動きを見せていない。しかし、俺とユーアの関係は完全に今まで通りというわけにはいかなかった。

 それでも俺たちはお互いに、あの日の出来事を忘れたように接していた。

 冗談も交わせば、笑顔も見せる。そんな日々だった。

 どんどんどん!

 ドアが激しく叩かれる。営業の都合で、早めの夕食を二人で摂っていた時のことだ。

「大変だよ、リオマおじさん!」

 返事も待たずにそいつは転がりこんでくる。近所に住むライズというガキだ。

「マスカレードがいなくなっちゃったんだ! 見かけなかった!?」

 仮面舞踏会(マスカレード)というのは、昔ウチに捨てられていた犬である。白い小型犬だが目の回りの毛だけが黒いので、そう名付けられた。

 今はライズの家で飼われているが、こいつには突然ふらっといなくなる癖がある。こうしてライズが俺の平和な生活を乱しに来るのも、もう何度目かになっていた。

「ああ、あのバカ犬ならここに……」

 そう言って、スープ皿の中身を指し示す。

「え?」

「……脂ののりがイマイチだったな」

 沈黙。

「ああっ! マスカレードぉ!!」

「リオマさん! ふざけてる場合じゃないでしょ!」

 ……騒がしい奴らだ。頼むから静かにメシを食わせてくれ。

「ライズくん、その犬はいつからいなくなっちゃったの?」

 ユーアがお姉さんぶって尋ねる。

「さっきエサをあげようと思ったら、外れた鎖だけが転がってて……」

「そう……。わかったわ、私たちが探してあげるから、ライズくんはおうちで待ってて。ね?」

「コラ。私『たち』ってのは何だ」

 ユーアは俺を無視してライズを送り出した。

「さあ、リオマさん、行きましょう」

「……あのな」

 俺は食事を平らげながら言う。

「そんなことに構ってるヒマはない。俺たちには他にやらねばならないことがある筈だ」

「何ですか、『やらねばならないこと』って?」

 箸を置いて、俺は答えた。

「取り合えず……食事の後片付けとか」

 一瞬の空白。そして――

 パシィィィン!!





 かろうじて明るさを保っている外の通りを、俺は左頬を押さえながら歩いていた。

「俺を殴った女は、シャティの他ではお前が初めてだぞ……」

「光栄ですねー」

 隣のユーアは涼しい顔だ。

 さすがに少し肌寒い時期なので、俺の昔の上着を着ている。十三、四歳の頃の物だがそれでも彼女にはやや大きめだ。

「だいたい、いつもひょっこり帰ってくるのに、わざわざ街中探し回るつもりか……ックシュン!」

 大きくクシャミをした俺に、ユーアが心配そうに言った。

「大丈夫ですか? リオマさんも何か着てくれば良かったのに」

「準備する間もなく引っ張って来たのはどこのどいつだ」

 ユーアは心もち俺に寄り添うようにした。

「ごめんなさい。……でも、ライズくんがあんまり一生懸命だから、あの子もマスカレードも可哀相で……」

 彼女が俺の腕をそっと掴む。少し声が小さくなった。

「あの日、私も……本当はあなたに探して欲しかったのに」

 …………。

 俺が返すべき言葉を見つけられないままでいると、ユーアは不意にいつもの明るい調子に戻った。

「ところで、どうやって探したもんでしょうね」

「落とし穴でも仕掛けとくか? あいつなら引っ掛かるぜ」

「もう、真面目に考えて下さいよ。――だいたい、どうしてサキョウさんなんか持ってきてるんですか」

 俺の手からぶら下げられてるサキョウを見つめる。

「以前、マスカレードがあんまり言うことを聞かないんでな、例のコレクションの中にあった首輪を付けてやることにした。呪文を唱えると輪がきつく締まるという……」

「そのリオマさんの動物虐待と、この際何の関係が?」

<魔術によって造られた私は、同じ魔術の品を感知することが出来るんや>

「類は友を呼ぶって奴だな」

<そういう言い方はやめて欲しいねんけど>

「兎に角、あいつがその首輪を付けてる限り、何処にいようとわかるって寸法だ」

 まだあまり合点が行ってないようだが、取り合えずうなずくユーア。

<んーと、まずは……北にしばらく歩いて……>

 俺たちはそれに従い、通りを北へと足を運ぶ。すれ違う人々が妙な目で見た。確かにポットを抱えて歩く中年男の姿は、ごくありふれた光景とは言い難い。

 それを敏感に察したか、ユーアが数歩俺から離れて他人を装う。……ったく、この女は……。

「おい、まだか」

 小声でサキョウに話しかける。ユーアはまた一歩遠ざかった。

<そうやな、ほんならこの辺で南へ向かって……>

 北の次は南か……。

――南ぃ?

「てめェ、ふざけてんのかっ!」

 俺は思わず大声を上げる。周囲の視線が集中した。

<ちょっと運動不足を解消してやろうと思ただけやんか>

「……俺がお前から手を放したら、どうなるかわかってるか? 自分の位置エネルギーを認識しろよ」

<次の角を右に入り。多分その辺りにおる筈や>

 最初からそう言いやがれ。俺は幾つもの瞳の間をくぐり抜け、完全に離れた所で靴の汚れを払うふりをしていたユーアをひっ捕まえた。

「さあ、行くぞ!」

 ことさら大きな声でそう言ってやる。

「私、あなたなんか知りませんっ」

「やかましい、元はと言えばお前が……」

「ああ、見知らぬ変な人が私をっ」

 俺は無理やりユーアを引きずって角を曲がった。

 折も折、家々の間の路地から飛び出してきた白い影一つ。

「――見つけたぞ、バカ犬!」

 サキョウをユーアに投げ渡し、マスカレードに飛びかかる。しかし、動きだけはすばしっこいマスカレードはあっさり俺の足下をくぐって逃げた。

「くそっ」

 ちょこまかと走り回る犬公に、恥ずかしながら俺は翻弄されるばかりである。

――そうだ、例の首輪の呪文!

「えーと……」

 他人にくれてやった品の事を、いちいち律儀に覚えているような俺ではなかった。

 と、後ろから飛んできた女物の靴がマスカレードの後頭部を直撃する。

 地面にのびる白い犬。

「……手加減ねーな、お前」

「だ、だって、ホントに当たるなんて……」

 片足で立ったまま呆然と呟くユーア。

「そういう犬なんだよ、こいつは」

 二人で顔を見合わせていると、突然奴はむくりと起き上がって走りだした。

「しまった!?」

「芸の細かい犬……」

「……ああいう犬なんだ、あいつは」

 追おうとした俺の耳に、澄んだ声が聞こえた。

「おいで……そう、いい子だね……」

 暗くなった通りの向こうに、一人の少年がしゃがみこんでいた。マスカレードはしばし躊躇したあと、彼の腕に飛び込む。

 雲が途切れたか、赤く染まった光が少年を照らした。

 初めて会った時のユーアのように、ボロボロの服、汚れた顔。綺麗な瞳だけがやけに不釣り合いだ。

「こいつ、お兄ちゃんの犬?」

 マスカレードを抱いて少年は立ち上がった。

――それが、最初の出会いだった。











「僕の名前? ホタルって、呼ばれてるよ」

 少年は麒麟亭の中を物珍しそうに見回しながら答えた。

 マスカレードをライズの家に送り届ける時、後からこいつがついて来た。話を聞いてみると、こいつも行く所が無かったらしい。

 子供なので要領を得ない部分もあったが、ホタルは旅芸人の一座の一人で、仲間たちとはぐれてしまったということだ。十二、三歳、ってとこだろう。声変わりもまだしていない。ちゃんとした年齢は本人も知らないようだ。

「小さい頃、捨てられてたのを座長が見つけたんだって。だから本名もわかんない」

 ホタルはさらりとそう言ってのけた。

「じゃあ、その一座の連中が心配してるんじゃないのか?」

 首を振るホタル。

「ううん。僕は食べさせてもらう分働いてただけだもん。いなくなっても困んないと思うよ。正直言ってそのうち逃げだそうかと思ってたし」

「……わかるわ。そういう人たちって、小さい子に無理に厳しく芸を仕込んだりするんでしょ?」

 俺は、ホタルに優しく話しかけるユーアを壁際まで引っ張っていった。

「おい、まさかとは思うが……」

 小声で囁く。

「はい。しばらく泊めてあげて下さい、リオマさん」

 予想通りの言葉に、肩にどっと重いものがのしかかるのを感じた。

「これ以上、居候が増えてたまるかよ……」

「私はちゃんと働いてるじゃないですか。なんならあの子の分も、私のお給金から引いてもらって結構ですから」

「だからー、そういう問題じゃ……」

 俺はちらりとホタルの方に目をやる。ユーアが悪戯っぽく言った。

「それとも、私と二人っきりじゃなくなるのが嫌?」

「正気か、お前」

「じゃあ別に不都合は無いでしょ」

 はぁ、いつから難民収容所になったんだ、ここは。――ともあれ、もう開店の時間だ。

「今晩のところは、その議題は保留だな。おいホタル」

「なーに? お店始めるの?」

「ああ。だからそんな格好でウロウロされると困る。ユーア、湯に入れてやってくれ」

 ユーアが戸惑った表情の自分の顔を指さし、言う。

「私が? 一緒に……入るんですか?」

「ついていてやるだけでも構わないけどな。恥ずかしがる相手でもないだろ、ガキなんだ  し」

「いいよっ、一人で入れるから!」

 何故かホタルも強い調子で言った。

「どうでもいいから早くしろ。客どもが来るぞ」

 そう言い残し、俺はテーブルの上に出しっぱなしだった食器を片付けにかかった。

 ユーアはホタルに浴室の説明をしてやっていたようだが、やがてドアを閉めて一人で出てきた。

 少しして、中から水音が聞こえだす。

「リオマさん、あの子の着替えどうしましょう」

「俺の古着でいいだろ。俺はもう何も言わん。好きにしな」

 こないだ二階を整理した時に出てきた服だ。幾らかはシャティんところへやっちまったが、まだ少しは残っている。さっきまでユーアが着ていた上着もそうだ。

「じゃあ、取ってきますね」

 彼女は階段を昇っていき、しばらく俺の洗い物と風呂場、二種類の水の流れだけが麒麟亭に音を提供していた。

ちなみに、台所に置いてあるのは『水が絶えず流れる小型の小便小僧』である。こんな物ばかり何処からともなく集めてくる祖父と、こんな所に備えつけて食器洗いに使わせる父もさることながら、造った人間の顔を是非とも見てみたい一品だ。

 服を抱えて降りてきたユーア、ノックをしてから浴室の扉を開ける。

「入るわよ、ホタルくん」

 再び扉を閉める。

 水音が途切れた。

 ユーアのかすかな驚きの声が聞こえたような気がした。――そんなに免疫がないのか?意外とお嬢様育ちなのかねえ、あれで。

 中から何やらボソボソと話す声が聞こえてきた。内容までは聞き取れない。そのうち静かになり、二人が揃って出てきた。湯気がこちらの部屋にまで流れだす。

「へぇ……」

 綺麗になったホタルの姿に、俺は思わず声を漏らす。汚れを落としてみると、幼いなが  らかなり整った顔だちだ。愛らしさに加え、なにかしら気品のようなものさえ感じられる。

―だが、ここで余計な情を抱いてしまってはいけないのだ。

「よし、じゃあお前は上にでも行ってろ。邪魔だからな」

「えー! やだ、僕お兄ちゃんたちの仕事見たい。それに僕だってお手伝い出来るよ」

 ユーアと似たようなことを言うが……歳が違うぞ。ガキに出来るような仕事なら、ユーア一人に任せて酒でも呑んでるぜ。

 ホタルは救いを求めるようにユーアの顔を見た。

「大丈夫よ、ホタルくん。リオマさんは口は悪いけどいい人だし、それにもうすぐお客さんが押しかけて来て、それどころじゃなくなるから」

 まさしくその通りだった。

「さあ、酒だ酒だ!」

「やっぱりこの店に来ないと一日が終わらないよな」

「リオマ、いつものヤツを頼む」

 常連客が例によって騒ぎながら入って来、どかっと席に腰を下ろす。俺は仕方なく厨房に向かう。

「お?」

 彼らはここに至ってようやくホタルの存在に気付いたようだ。

「おい……リオマ……」

「何だ」

 俺は包丁を手に取りながら答えた。

「お前、ユーアちゃんだけかと思ったら、隠し子まで……うぉッ!?」

 ガシュッ!

 俺が投げた包丁が、連中のテーブルの真ん中に突き立った。

「そいつは只の居候その二だ。今度言ったらテーブルじゃ済まんぞ」

「あーあ、また疵が付いちゃった」

 嘆息するユーアを無視し、別の包丁で材料を刻み始める。

 どんどん客は増えていく。ユーアが彼らの間をせわしなく動き回り、注文を俺に伝える。

 目の前に人影が立ったような気がした。俺はコトコトと煮える鍋から目を離さずに言った。

「そいつを端のテーブルに運んでくれ」

 人影はカウンターの上の、サラダとスープの乗ったトレイを持って視界から消えた。

 おや?

 てっきりユーアだと思ったが、それにしては背が低かったような……。

 顔を上げる。

 自分の体に比べて大きすぎるトレイを危なっかしく支え、慎重に歩いていくホタルの姿。

「! おい待てホタル、お前に言ったんじゃ……」

 俺の言葉に少年は振り向こうとして、そして――。

 案の定バランスを崩した。時間が止まったような一瞬の後。

 派手な音が響き、野菜や汁が飛び散った。

「ホタル……」

 全身から殺気を発して、俺は冷淡に言った。

「そうやって人の料理を床にぶちまけるのが手伝いだと思ってんなら、そんな考えは即刻捨てるこった……」

 無言でうつむくホタル。

「リオマさん、あんまりです。誰にだって失敗はあるじゃないですか」

最初(ハナ)っからやんなきゃ失敗なんざしねェんだよ!」

「何もあんな言い方しなくたって」

 ユーアに加勢するかのように、鍛冶屋のジュトウが横から口を挟む。

「そうそう。息子にはもっと優しくしてあげなきゃね、パパ♥ ……むぐッ!?」

 グシャッ!

 俺が投げたトマトが、奴の顔の真ん中に命中した。

「そいつは特別サービスだ。受け取りな、ジュトウ」

「あーあ、また汚れちゃった。誰が拭くと思ってるのかしら」

 嘆息するユーアを無視し、俺はホタルに近付いた。

「いいか、ホタル。俺は怒ってるわけじゃないんだ。自分には無理だってことがわかっただろう? ……さあ、ここは俺が片付けるから上に行ってろ。自分の役割ってもんを、も っと良く考えるんだな」

 ホタルはうなだれたままソファの上の自分の荷物を背負い、とぼとぼと階段を昇っていった。

 雑巾で料理の残骸を処理し、俺はまた仕事に戻る。

 どのくらいの時間が経ったろうか。

「リオマお兄ちゃん、ちょっと来て!」

 上からホタルの呼び声がした。何だ、いったい?

「ユーア、ちょっとここを頼む」

 そう言い残し、二階に行く。ホタルは何処だろう。

「こっちこっち」

 シャティの部屋――今はユーアの部屋だが――から声が聞こえる。

「おい、あんなのでもいちおうレディだ。勝手に入ると怒られ……」

 ドアを開けた俺は、ポカンと口も開けた。

 鏡の前に立っていたのは、可憐なドレスをまとった美しい少女。

 俺が唖然としていると、そいつは腰まである綺麗な髪を、そっくりそのまま持ち上げてみせた。カツラだ。

「ほ、ホタル!?」

「僕の商売道具だよ。――自分に出来ることを考えてみたんだ。伊達に芸人やってたわけじゃないからねー。僕の踊り、そこそこ評判良かったんだよ」

 なるほど。女装させて芸をやらせてたわけか。子供よりはウケがいいもんな。

 俺は改めてホタルの顔を見た。薄い化粧のおかげで、実際よりもかなり年上に見える。

化ける(よそお)い、とは良く言ったものだ。

「踊らせてくれるよね、ここで?」

「あ、ああ。別に構わんが」

「ありがとう!」

 ホタルはニッコリ微笑んだ。軽く紅をひいた唇が妙に艶めかしい。

――いかんいかん、何を考えてんだ俺は。

 と、廊下のほうで足音が聞こえた。

「リオマさん、何かあったん……え!?」

 部屋を覗き込んだ途端、俺と同様の反応を示すユーア。

「ど、どなたです、その人? ひょっとして『居候その三』とか……」

「『その二』だよ。ホタルだ」

 ホタルはユーアに向かって片目をつぶってみせる。

「ええー!?」

 立ち尽くしているユーアは面倒だから放っといて、俺はホタルと話を進めることにした。

「そうだ。リオマお兄ちゃん、これ弾ける? さっき向こうの部屋で見つけたんだけど」 ベッドの上に置かれた琴を指さすホタル。

「いや、それは俺のもんじゃねェからな」

「なーんだ。音楽がないと踊りにくいんだけどな」

「あ……私、少し弾けますけど……」

 何とか状況を理解し、ユーアが言う。

「ホント? じゃあお願い、お姉ちゃん」

 ホタルは琴を渡した。

 店員不在の階下が騒がしくなってきたようなので、俺は階段を降りる。琴を抱えたユーアと、歩き方まで女らしくなっているホタルが続いた。

「何やってたんだリオマ?」

「ユーアちゃーん、水を一杯ちょうだい」

 つくづく五月蠅い奴らだ。

「おい、ちょっと静かにしてくれ!」

 皆が一斉にこちらを見る。

 そう言えば、芸人を呼んで踊りを披露するなど、麒麟亭ではついぞしたことがない。

 ユーアが手近な椅子に腰掛け、試しに曲の一節を爪弾いた。ステージなどという高級な物は無いので客たちの中央に立ったホタルは、目を閉じてそのメロディとリズムを確かめ、やがて小さく頷く。

「さて――ショー・タイムの始まりだ」

 俺の台詞を合図に、軽やかに舞い始めるホタル。

 上品なドレスの薄布がランプの明かりに淡く輝く。金の首飾りが時折光を照り返す。

 メロディに合わせ、ある時は優美に、ある時は力強く、小さな身体が躍動する。

 繊細に、艶やかに。気高く、まばゆく。全身で虚空に美を刻む。

 その場にいる者全てが、この幼い舞姫に目を、そして心を奪われていた。

 流れる音色もまた、素晴らしかった。ユーアのしなやかな指先から生み出される旋律は、ホタルの舞と見事に調和し、辺りを包んだ。

(こいつら……)

 とんでもない奴らだ。こういうことには疎い俺でも、凡人の域を遙かに超えているのがわかる。

いちおう玄人のホタルはともかくとして、問題はユーア。生活に追われる庶民が身に付け得る技術ではない。いったい、何者なんだ?

 夢のような時が過ぎ、余韻を残して最後の音が途切れた。ホタルが動きを止め、深々と一礼する。彼女の、もとい彼の波うつ髪が静かにおさまると、思い出したように大喝采が巻き起こった。

 こりゃあ、麒麟亭に置いてやらざるを得なくなったかもな。何よりこの客連中が許さないだろう。ホタルに逃げられた一座には気の毒だが。こいつみたいなガキの十人や二十人分は軽く食わせていける芸だ。それだけの価値はある。

 ホタルはもう一度お辞儀をし、今度は誇らしげに階段を昇っていった。

「おい、リオマ。ありゃあ何処の踊り子だ……?」

 感極まった様子で客の一人が問う。流石にあのガキと同一人物だとは考えつかないのだろう。

「そんなことより、そろそろ看板だぜ」

「しかしなあ……」

 ジュトウが呟く。

「リオマよ、どうしてこう次々と女を捕まえてくるん……でぇッ!?」

 グサッ!

 俺が投げたフォークが、ジュトウの鼻先をかすめて柱に突き刺さった。

「ちっ。外したか」

「あーあ、また食器の寿命が減っちゃった。結構、高いのに」

 嘆息するユーアを無視して、俺はフォークを抜きに行く。無論、外したのはわざとだ。「しかし毎度ながら、リオマの“投げ”も凄ェよな。何処で訓練したんだ?」

 ジュトウの向かいに座っていた男が言った。

「案外あれだな、実は――暗殺針だったりして」

「ははは、そりゃいいや。世界一怠け者で、皿洗いの似合う殺し屋だな」

「おいおい。あまり軽はずみなことを言ってると、『始末』されるぞ」

 酔っぱらいたちは大声で笑い合う。

 だが、いくら図太い俺でも今の言葉には思わず冷や汗が出た。ユーアも複雑な笑みを浮かべている。折角のいい気分がぶち壊しだが、怒るわけにもいかない。

――まったく、何も知らない奴は幸せだ。





 ふくろうが鳴き、麒麟亭の中の人間はまた三人に戻った。

「どうだった、ホタルの様子は?」

 降りてきたユーアに声をかける。

「すぐに寝ちゃいました。――けどホントに、踊ってる時とは別人ですね。こうして見ると」

 先日もう一度大掃除を実行し、俺の部屋とベッドは使用可能な状態に復活していたのだが、そういうわけで俺はソファに逆戻り。

「追い出したりしないですよね、ホタルくんを?」

「俺だって鬼じゃない。意地悪したいとか面倒くさいとかいう理由で反対してるわけじゃないんだ」

 ホタルの青みがかった瞳を思い浮かべる。

「お前だって気付いてるだろう。あいつは、異国人の血が混ざってる」

 この国では、異国人と婚姻しその優れた所を取り入れることは、王族や上流貴族だけに許された特権なのだ。

 そういった連中は自分たちを『混血種』と呼び、俺たち平民を『単血種』とさげすんでいる。もっとも平民にだって、自分たちこそ正しい血統を守り続けてきた『純血種』だと主張する輩もいるから、どっちもどっちだけどな。

「それがどうかしたんですか?」

 まだピンと来ないらしい。本当に、この娘は所々常識が抜け落ちている。

「だからだな……」

 血統に関する規制は厳しい。ミラ国とこのセイグル王国が併合されてずいぶんになるが、そのミラ人と純粋セイグル人の間でさえ、結婚は禁じられているくらいなのだ。

 禁を犯せば―死。異国の血をひく子供も同じである。

 ホタルは旅芸人たちが異国で興行していた時にでも拾われてきたのだろう。だとしたら純粋な異国人という可能性もあるが……。

「異国系の人間をかくまっているという噂が流れてみろ。すぐに役人が飛んで来るぜ」

「ちゃんと事情を話せばわかってもらえるんじゃないですか?」

「俺は兎に角、お役人どもには関わりたくないんだ。あんな、実は偉くもなんともない王族に媚びへつらってるような連中にはな」

 ユーアはしばらく黙り込んだ。

「大体、俺はお前にだって出て行って欲しいと思ってるんだ。――そのほうがお前のためだ、という意味でな。自分が狙われてるかも知れないと、わかってるんだろ?」

「え? そうなんですか?」

 …………。

「あのな。素性は聞かないとは言ったが――どう考えてもわけありな行き倒れ娘、ギルドが探してるのは若い女、これで何も気付かないほど間抜けだと思ってるのか」

「そんなこと言われても……私、狙われる心当たりなんてありませんし。絶対別の人ですよ、ギルドが追ってるのは」

 妙にきっぱり断言しやがるな。

「元暗殺針の俺だ。何かとギルドにチェックされる恐れもある」

 そう、いくら今は平和に暮らしていようと、俺の過去は消えない。人殺しの烙印はいつまでもついて回るのだ。

「ましてやホタルのことで騒ぎを起こすわけにはいかん。それに……」

「それに?」

「仮にお前がギルドとは無関係だったとしても、俺のせいで危険な目に会うかも知れない。出来ればその……お前を、巻き込みたくないんだ」

 らしくないな、と自分で思った。ホタルの舞を見た影響だろうか。

 ユーアは俺の瞳を見て、静かに微笑んだ。

「――手遅れですよ、今さら」





 彼女が寝に上がり、明かりを消してからも俺は眠れなかった。

 いくら振り払っても、嫌な記憶が湧いてくる。ユーアとの会話のせいだ。ユーアの笑顔は、あいつに――サユミに似ている。見る者を力づけるようでありながら、自らは切なさを抱いた微笑み。

 十年前。勿論俺は十七だった。その年代の若者にありがちな、自分への不信感と将来への不安感を抱え、俺は家出同然に旅に出た。

 金に余裕はさっぱりなかった。とある村で、ユーアのように行き倒れた。そんな俺を助けた一家がいた。

 農場主の父親、気立てのいいその妻、そして一人娘のサユミ。

 俺はそこで働くことになった。哲学的な悩みなんぞは何処かに吹き飛んでしまった。そこにはサユミがいたからだ。彼女の笑顔に縛られるなら、それはそれで良かった。

 ありがちな話だ。だが、サユミと結ばれ農場を継ぎ幸福な一生を送る――現実はそこまでありがちな物語を俺に与えなかった。

 サユミの父は先祖代々セイグルの民。そして、母は――ミラ人の血を引いていた。

 ある日。

 田畑を踏み荒らし、奴らはやって来た。

「三人まとめて捕まえろ。抵抗すれば殺しても構わん」

髭を生やした神経質そうなその役人は、甲高い声でサムライたちに命じた。

 奴の顔は、今でも忘れはしない。物陰で震えるサユミを抱きしめながら、俺はそののっぺりした顔を目に焼き付けた。

(リオマ君、サユミを連れて逃げてくれ……)

 奴らが来るとわかった時、サユミの父はそう頼んだ。その言葉通り、俺たちは奴らの隙を見てその場から逃げ出した。

 背後で悲鳴が聞こえる。足は鉛のように重く、走れども走れども前に進まないように感じ、そのくせ耳元を切る風はやけに痛い。

「見つけ出して娘()殺せ! 殺せ!」

 苛立って叫ぶ声。平和だった家庭を蹂躪する靴音。握ったサユミの手の、氷のような冷たさ。照りつける太陽。ぼやけた視界。そして、奴の顔。

 麒麟亭のソファの上の俺に、それらが一度にのしかかった。

――二人は小さな街で、新しい生活を始めた。再び、それなりにありがちな不幸話。雨の中で寄り添うように生きる、二匹の捨て猫のような……。

 幸いサユミは父親似だった。しばらく素性がバレる心配はなかった。

「俺は奴を許さない。決して生かしておくものか! 何が混血種だ、こんなバカげたことを定めた王族もろとも、皆殺しにしてやる!」

 俺は口癖のようにそう言っていた。サユミはただ、哀しそうに俺を見るだけだった。

(それから数年間。そのために、俺は敢えて血塗られた道を歩んだ。それだけの力を得るために。その機会を得るために)

“赤蠍”。それは俺の復讐の仮面だった。

 その役人はもうこの世にいない。

 俺が殺した。

 とある依頼の対象が奴だとわかった時の俺の喜びは、とても言葉では言い表せない。

 確か、名はレマルク。姓は……忘れてしまった。名前などどうでも良かった。

 奴はすっかり成り上がり、貴族階級の一員となっていた。そうあの、少女を助けた日の話だ。

 仕事に私情を交えたのは、あれが最初で最後だろう。

 そして、俺の怒りが王族そのものに刃を向けようとしていた頃……俺は、サユミを失った。

 四年前のことだ。

 残されたものは、目的を見失った復讐心と人殺しの肩書。

 俺は故郷に帰った。姉はすでに嫁ぎ、病に臥していた父は安心したかのように数カ月後に死んだ。

 俺は、麒麟亭を継いだ。平凡な暮らしがいつか俺を安らかな眠りにつかせ、その中で見る夢こそが現実だと思える日が来ると信じて。



 心の奥底に封じ込めていた記憶。

 やはり今夜は眠れそうにない。




Posted by 白川 嘘一郎 at 21:47│Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。