2010年09月27日

◇ 壱、「明朗会計銅貨四枚」



ここカディアルの街に、黄昏が訪れようとしていた。そろそろ陽の落ちるのが早くなる季節だ。

――毎日のことながら、規則正しくお勤めを果たす太陽に拍手の一つも送りたくなる。俺だったらこんな日は、とっとと家に帰って酒でも呑んで寝ちまうだろう。

姓は(かい)、名はサァト。

 ただし家族や知り合い連中にはリオマと呼ばれてる。まあ、(あざな)ってやつだ。

 小さいながらも酒場一軒の主、それが俺だ。ちょいと背伸びをすれば、三十路に手が届く。このまま酒場の親父で一生を終えるには若すぎると、自分でもたまには考えるが、さりとて何をしようという気も起こらない。無気力で自堕落な不良中年、てところだ。

「よう、リオマ」

 そんな事を考えながら、人通りもまばらになった通りを歩いていると、顔見知りの八百屋が声をかけてきた。知り合いといっても、はっきり言って好きなタイプではない。答える気にもなれなかったので無視する事にする。

「おい、リオマってば……隗・サァト・リオマ!」

「やかましい。何か用か」

 あまりにしつこいので、俺は顔も向けずに答えた。脂ぎったそいつの顔の下品な唇から、俺の名前が何度も出るのは耐え難い。

「今日は何も買ってかないのかい? どれも新鮮だぜ」

「嘘つけ」

 日が暮れてから野菜を買いに来る奴はいない。売れ残りを俺に押しつけようとしていることは明白だ。まあ、ウチの客が不味い野菜を食おうが、俺は別に構わないんだが……。

「うんとオマケするからさあ」

 突き出た腹を撫でながら言う八百屋に、俺は肩をすくめてみせた。ポケットの中の物を掴み取り、掌を広げて奴の前に突き出す。

 家の鍵。紙くず。火打ち石。何処から入ったか小石が数個。金目の物は何も無い。

「これで何か売ってくれるか?」

「…………」

 しばらく前まではこの中にも多少のコインが入っていたのだ。昼頃につまみの材料でも仕入れに行こうと外に出たが、やくざ友達にバッタリ会い、誘われるままカード勝負に加わったのがまずかった。世の中というのは上手く出来たもので、ポケットが軽くなった分だけ気分が重くなったというわけだ。

「リオマよ、もう少し真面目に生きろよ……」

「余計なお世話だ」

 俺は足早にそこを離れた。八百屋はすぐに新たな犠牲者を見つけたらしい。自分の店のキャベツがいかに安くて旨いか、力説する声が後ろから聞こえてきた。





 樫の木通りからカラス小路を少し入った所に、煉瓦造りの二階建ての建物がある。麒麟亭――俺のねぐらであり、仕事場だ。やたらとボロい。不精な俺が手入れをしっかりと怠っているせいだ。古ぼけた看板が無ければ誰も酒場と気付かないだろう。

 玄関の扉の両脇には麒麟の石像が立っている。俺のじいさんがこの酒場を建てた時に置かれたもの、つまり俺よりずいぶん年寄りだ。当時、麒麟などという生き物の伝説は完全に異国の文化だったから、祖父の物好きの度合いがわかるというものだ。

 ちなみに右の麒麟の尻尾は、昔俺がいたずらして割ってしまったので、無い。祖父がこれを置いたのは客寄せ兼お守りのつもりだろうが、チャンバラの練習台にしたくらいで尾が欠けるようでは、聖獣麒麟の加護もたかが知れている。

 俺はそれらの見飽きた景色を尻目に、錠を外して木の扉を押し開けようとした。これまで数え切れないほど繰り返してきた動作の筈だった。

 しかしその時だ。頭の中にかすかな違和感が巣食っていることに気付いた。それの正体を確かめるべく、俺は辺りを見渡した。

 夕日に赤く染まった看板。煉瓦の壁。そこにもたれかかるボロきれにくるまれたゴミ。一対の麒麟の石像。屋根にとまるカラス。

 看板も壁も石像もカラスもいつも通りだし、あとは……。

 ……ゴミ……?

「貴様か、人んちの玄関の調和を乱してる奴は!」

 誰が捨てていったか知らないが、機嫌の悪さも手伝って、俺はそのボロをまとった物体に蹴りを入れた。

 ごろり。

 何やら転がり方が不自然だ。足に当たった感触も妙に柔らかい。

(もしかして生き物じゃねぇだろうな……)

 俺はそう思った。前にも一度、店の前に犬が捨てられていた事があったのだ。あれは近所のガキにくれてやったが、そうでなかったらスープの材料になっていただろう。全く可哀相な事をする奴がいるものだ。そういう連中は、一度自分が代わりに捨てられてみればいい。

 ――それはともかくとして、今度のは大きさが違う。犬などという可愛いものじゃない。見たところこのゴミは、小柄な人間ほどの大きさはある。

 俺は恐る恐るボロきれをめくってみた。まさかとは思うが、猛獣や毒のある生き物の類だったら洒落にならない。

 ボロの合間から、『中身』が覗いた。それは確かに小柄な人間ほどの大きさだった。それも当然、小柄な人間以外の何ものでもなかったからだ。

 まだ息はあるようだ。

さて、この人物の正体について考えられるのは三つ。行き倒れか、他人の家の前でボロにくるまって寝るのが趣味なのか、あるいは飼い犬に捨てられた人間か、いずれかだ。

 ……もし二番目か三番目なら絶対に関わり合いたくないが、とは言え一番目でも困る。こんな所で昇天された日には、客が寄りつかないし寝覚めも悪い。

 取り合えず、別の場所に運ぶとするか。

 俺はそいつを抱き起こした。助けてやる気はなかった。その時までは。

 布がさらに少しめくれ、汚れた顔が半分ばかりあらわになった。

 女。

俺はため息を一つつき、続いて舌打ちをした。自分で思っていたより、俺は紳士だったらしい。

 ――こうして、麒麟亭は奇妙な客を一人迎えることにあいなったのである。





 夕食と、店を開ける準備をしながら、俺は古ぼけたソファに目をやった。その上には例の娘が横たえられている。あれから半刻ばかり経った。しかし、彼女はまだ眠ったままだ。

 もうすぐ五月蠅い客たちが、一日の仕事を終えてなだれこんで来る頃だ。

 四年前、親父が死んで俺の代になってから、麒麟亭は酒場と呼ぶには抵抗がある代物になっていた。もともとそんな高級な店でもなく、庶民的な一膳飯屋といった感じであったが――
 一階は客を迎える筈のスペースでありながら、俺の生活空間と化している。ガラクタだらけだ。二階となるとさらにひどく、物置状態で座る場所さえ残されていない。そんなわけでここに寝かせたままなのだ。

「本日休業の札でも掛けとくか……」

 気乗りがしない日は店を開けないなんてしょっちゅうだから、別に困りはしない。こんな店に客が来てくれるのはひとえに他に酒場がないからだ。あと、強いて言うなれば、若い頃に港街なんかを渡り歩いていたせいで、俺が海の向こうの異国風料理に多少は通じているおかげだろうか。

 もっとも近頃では、島国のこのセイグルにもどんどん異国文化が流れ込んで来ているし、俺の料理がそれほどもの珍しくなくなる日も遠くないだろう。

 ……いっそ、潰れてしまえば。

 いつものようにそう考える。もちろん、積極的に店を畳んで何かをしようという考えはない。いつもの事だ。

「……う……んん……」

 娘が眠りの淵から小さく声を上げ、俺は物思いから引き戻される。泥まみれの栗色の髪が揺れるのを見て、考えた。歳は幾つぐらいだろう?

 まだ幼いとも言えるほど若い顔だちである。十七、八には達してるようだが、この年頃の女の年齢は良くわからない。それにしても、何故行き倒れなんぞ……。

 娘のまぶたがかすかに震えた。ややあって、それはゆっくりと開かれる。

「気が付いたか?」

 我ながら陳腐で間の抜けた台詞だ。

「ここは……」

 まだ焦点の合わないぼんやりとした表情で呟く娘。

「麒麟亭っていうチンケな酒場さ。あんたが倒れてた所だ」

 彼女はそろそろと身を起こした。口を開こうとするのを手振りで制する。

「あまり喋らない方がいい。食事の支度をするから少し待っててくれ」

 熱いシチューを皿に移す。胃が弱っているうちは、このくらいの物がいいだろう。

 スプーンを添えて彼女の前に出してやる。彼女はシチューを少しずつ口に運び始めた。

 二杯目の皿の中身があらかた無くなった頃を見計らって、俺は娘に話しかけた。

「落ち着いたか?」

「はい……どうもありがとうございます……」

「そりゃ良かった。じゃ、銅貨四枚出してもらおうか」

 娘は何の事かわからないといった様子で俺の顔を見る。

「代金」

 そう言って空の皿を指さす。

「お金……取るんですか……?」

「当然だ。他ならともかく、こちとら食い物を扱う商売だからな」

「でも私、その、持ち合わせが……」

 うつむきながら娘は小声で言った。

「わかってる。金持ってて行き倒れるバカはいねえよ。ツケにしとくからいつでも払いに来な」

 実は、本気で金を取ろうなどと考えていた訳ではない。まわりくどいやり方だが、縁もゆかりもない行き倒れに無料で飯を食わせたとあっちゃ、これまでちゃんと勘定を払ってきた客に申し訳が立たないからだ。

「私、ユーアと言います」

 彼女は顔を上げ、はっきりとした口調で言った。

「どうも色々とお世話になりました。このお礼は必ず……」

 言いながらペコリと頭を下げ、ユーアは立ち上がった。背は俺の肩にも届かない。思ったよりも、小柄で、細くて、か弱い身体だ。俺は心の中で二回目のため息をついた。

「行くあてはあるのか?」

 俺の言葉に立ち止まるユーア。もの言わぬ背中が答えを返す。

「良ければ、ついでに寝床くらいは提供してやってもいいぜ。こんなむさ苦しい所に泊まりたくない気持ちもわかるが、この時間に外をうろつくよりマシだろう」

 ユーアは振り向いた。髪と同じ栗色の瞳に俺が映った。

「本当にいいんですか? でも、やっぱり……」

「心配するな。ちゃんと金は取る」

 俺の冗談にユーアは初めて笑顔を見せた。緊張が解けてきたらしい。

「俺は隗・サァト。リオマと呼ばれてる。取り合えず、お前さんの部屋を何とかしよう。……そうそう、さっき寝てた間に汚れた服と体も何とかしてやろうと思ったんだが、なにぶん女手が無いもんでな」

 それを聞いて、ユーアは気が付いたように自分の体を見回し、恥ずかしいような、困ったような表情を浮かべた。

「ま、後で風呂にでも入ればいい」

「お風呂があるんですか?」

 はずんだ声を上げる。

「そうだな、じゃあ先に入っておいてくれるか。その間に部屋を片付けるから」

 俺はユーアを連れて、奥の浴室に入った。

「珍しいですね。自分の家にお風呂があるなんて」

「まあな。その代わり、ちょっと変わった風呂だが」

 怪訝そうな顔のユーアに、俺は空っぽの湯船を指さして見せた。

「俺のじいさんは結構凄腕の冒険家――ついでに珍品好きの好事家でね。世界中の珍しい魔術の品なんかを収集してたのさ。例えばこれ、『いくらでも湯が湧き出る壺』とかな」

 俺が三度手を鳴らすと、たちまち置いてあった壺の口から湯があふれ始めた。

「でも、このお湯……」

 湯気に包まれた壺を見つめて、ユーアが言う。

「なんか、緑色してるんですけど」

「気にするな。色は緑だが正真正銘普通の湯だ。じき慣れる」

「……あんまり慣れたくないなあ、私」

 確かに、どぎつい緑の湯は最初は気味悪いだろう。生まれた時から慣らされている俺はともかく、普通に生活していれば、『魔術の品』などにそうそうお目にかかれるものではない。

「それじゃ、適当に入っててくれ。俺は二階にいる」

 そう言い残して、俺は階段に向かった。浴室を出る時ちらりと振り返ってみると、ユーアはぼんやりと水面を眺めながら何か考えているようだった。

 麒麟亭の二階は昔、宿泊施設としても使われていたらしい。だから部屋数はそこそこある。

 それが今やガラクタ置場な訳だが、一つだけかろうじて使えそうな部屋がある。七年前に嫁いだ姉の部屋だ。あまりの少女趣味に体が拒否反応を起こすので、ろくに入ったこともない。中身もほぼ七年前そのままのはずだ。

 二階の右手二つ目の部屋。床の木箱などを踏み越え、扉を開ける。人形や何やかやの小物や花柄模様が俺を出迎えた。俺はそれらの無言の重圧に耐えながら窓を開け、溜まった埃をはたき出す。この部屋だけは姉が、帰ってくる度に自分で掃除しているから片付いてはいるが、ほったらかしているとやはりこうなる。しばらく悪戦苦闘していると、階下で俺を呼ぶ声がした。

「リオマさぁんっ!」

 緊迫した調子が伺える。咳き込みながら、俺は一階に駈け下りた。床に無造作に置かれていた本を蹴飛ばして、浴室に走る。

「どうした!?」

 ノブに手をかけて怒鳴ると、

「開けないで!」

 悲鳴に近い声が上がった。

「……服、脱いじゃってるんです」

「俺は別に構わんが」

「構います! そんなことより、お湯が止まらないんですけど!」

「さっきと同じように三回手を叩け。そうすれば止まる」

 それだけ言って、俺は踵を返した。

 今の騒ぎで思い出したが、いったいあの娘は何者なのだろう。見たところ家出娘といった感じだが、それにしては妙なところがある。普通に育った若い女が、他人の家で無防備に風呂など入るだろうか? 要するに旅慣れているのだ。一人で。あの年で。それとも年頃の娘としては、自分の体を清潔にしておきたいという欲求は、何物にも勝るのだろうか?

他にもわからない事は山ほどあるが――まあ、知らねばならない事ならいずれ向こうから言ってくるだろう。余計な詮索でわざわざ心を閉ざさせる事もない。

(相手の事より、お前自身はどうなんだ、リオマ?)

 冷静なもう一人の自分が俺に問いかける。

(どうするつもりだ。ユーアというあの娘を。このまま麒麟亭においてやるのか)

 しばらくの間だ。たった一人で放り出すわけにはいかない。

(何故だ。何故あんな女にこだわる)

 ……女……か。

思い出してはいけない過去を思い出しそうになり、俺は慌てて頭を振った。

 どうでもいい事だ。もう、どうでもいい事だ。

 数日泊めてやったところで誰が困るわけでもない。俺は余計な事を考えないようにして掃除を続けた。

「よし、こんなものだろう」

 独りごちて、部屋を見渡す。どうせ寝るのはユーアだし。

 おっと、そうだ。俺はふと思いついて、箪笥の中から適当に姉の古着を引っ張りだした。寸法のほうは……まあ何とかなるか。

 とんとん。

 階段を昇ってくる足音が聞こえた。さっきの汚れた服を着て、頭にタオルを巻いたユーアだ。

「ちょうど良かった。ひとまずこの部屋を使っておいてくれ」

 俺の肩ごしに部屋を覗き込んだユーアは嬌声を上げた。

「わあ、可愛い! リオマさんのお部屋ですか?」

「……殴るぞ、お前」

 そのまま彼女とすれ違うように部屋を出る。

「ベッドの上に服が置いてある。人のお古が嫌でなければ使え」

 階に足をかけた時、後ろから声がした。

「どこで寝るんですか、リオマさんは?」

「下のソファで寝るよ」

「そんな。悪いです、私のために」

 だから俺の部屋じゃないんだってば……。俺は振り返らずに階段を降りながら答えた。

「気にするな。面倒なんで普段からあそこをベッドがわりにしてんだ」





 すっかり忘れ去っていた俺の夕食は、まるでそのことをすねているかのような味だった。客用のテーブルの上で、黙々とそれを平らげる。そう言や、本当に店を開けるのを忘れていたな。ま、いつものことだから誰も気にしないだろう。

 冷めた焼き魚を口に入れる。商売柄、料理は苦手じゃないが、やっぱり俺一人のためだけに作るのはうざったい。……これから当分は二人分か。いや、あいつも一応女だから飯くらい作ってくれるとありがたいんだが。

 いくぶん偏見っぽい希望を思い描いていると、上の方で見慣れない色彩が動いた。

 と思ったら、姉の服を着たユーアだ。そのまま階段を軽やかに降りてくる。

「休まなくて大丈夫か?」

「はい。昼間ずっと寝ていたようなものですから」

 苦笑しながら答え、ユーアは俺の向かいの椅子に座ろうとした。

「あ」

 注意しかけた俺の声も間に合わず、腰を下ろすユーア。一拍遅れてポキリと軽い音が響き、椅子の脚が一本根元から折れた。当然バランスを崩したユーアは椅子ごと床にひっくり返る。

「悪いな、そいつは壊れてたんだ。大丈夫か?」

「なんでそんなの置いとくんですか!」

 今度は苦笑を浮かべる余裕があるほど大丈夫ではなかったらしい。憮然とした表情で起き上がり、スカートの裾を直して埃を払いながらユーアが非難した。

「いや何……捨てに行くのも面倒だったから」

「面倒じゃないでしょ! 怪我したらどうするんです」

「ウチの客はみんな知ってるから座らんぞ。そのうち修理しようとは思ってたんだが」

 ……しかし、思ったより気が強いな。このお嬢さんは。

 ぶつぶつ言いながらユーアは隣の席から新しい椅子を運んできた。

「ところで、ユーアさんよ」

 椅子を軽く手で押してみて強度を確かめているユーアに尋ねた。

「本当に行くあてだとか、あるいは帰るあてだとかは無いのか? 追い出したり説教したりする気はないが、金と手間のかからんことなら相談に乗ってもいい」

 事情は知らないが、この年頃なら心配してくれる人間が居るんじゃないか。そう思っての問いだった。

「ありがとうございます。でも、いいんです。別に戻る所なんてありませんし……。しばらくこの街で働いてみようと思ってます。仕事を見つけるまでの間、ここに居させてもらっても構いませんよね?」

 屈託のない微笑みをこちらに向け、俺の顔を見る。俺は目をそらした。

「ねえ、私からも聞いていいですか?」

 俺の答えを聞こうともせず、ユーアは言葉を続けた。

「リオマさんて、一体どういう人なんですか。知ってるのはまだ、酒場の主人って事だけ。生い立ちとか、昔の事とか……そういうの、聞きたいな」

 チッ。一番話すのが面倒なとこを突いてきやがる。

「別に面白い話はねえぞ。俺のじいさん――さっきもちょっと言ったが――が結構な財産とこの酒場を遺して、親父が馴染み客を増やしたりしてかなりの儲けが出るくらいまで店を大きくして……そして今は、あとを継いだ俺が貯えを食いつぶしてる毎日さ。歳は二十七。独身。趣味は酒と昼寝と博打。両親はどっちも死んで、あと姉が約一名。そんなとこだな」

 よくある手法で、嘘は言っていないが全部を語ったわけでもない。若い娘には知る必要のない話だ。

 これ以上深く突っ込まれても困るな。よし、何とかして誤魔化そう。

「ユーア、お前、酒は呑めるか?」

「ええ。少しだけなら」

 その返事を聞いて、俺は立ち上がった。

「そいつは感心だ。ワインでも開けるからグラスを用意しといてくれ。そこの食器棚にある」

 酒場の一角に、俺の趣味で畳をしいた場所がある。五十年前まで隣国だったミラ国から、ミラ文字や姓の概念などと同時に伝えられた文化の一つで、独特の香りと座り心地が気に入っているのだ。その中の畳を一枚上げると、ちょっとした地下室への入口が現れる。酒類の貯蔵庫だ。

 瓶の並んだ棚から一本を取り出し、ユーアの待つ席へと戻る。しかし、その上に置かれた物を見て俺は呆れ返った。

「おい、お前はワインをマグカップで呑むのか」

「え……そのコップじゃいけないんですか?」

 この顔は本気で言ってやがるな。何てこった。

「チューリップの花みたいな形のグラスがあったろ。普通はそれを使う。この家で暮らすならその程度は覚えといてくれ」

 ユーアは不満そうに木製のマグカップを持ち去り、食器棚に戻した。

「ええと、どのグラスですか……?」

<二番目の段の右端のほう>

「ありがとう」

 ユーアの動きがふと止まった。

 カウンターの上の、彼女に返事をした物体をまじまじと見つめる。

「り、り、リオマさん!」

「どうした」

「ぽ、ポットが……しゃ、喋りましたよ!?」

「喋るよ、そいつは」

 俺は事もなげに答えた。

<リオマ、女の子にお酒なんか呑ませて変な事をする気ちゃうやろな>

「黙ってろ、サキョウ」

「……。これもお祖父様のコレクション?」

 まだ少し気味悪そうにユーアが言う。

「今日は無口だったから紹介するのを忘れてたぜ。喋るティーポットのサキョウだ」

<よろしく、お嬢さん>

「は、はあ……」

 ユーアは恐る恐る近づいてサキョウを手に取った。ためつすがめつ眺める。

「良く出来てますね……」

<落とさんといてな>

「リオマさん、この家って、こんな物ばっかりなんですか」

「他にも見たいか?」

「いえ……結構です」

 ユーアはサキョウを元の位置に戻すと、グラスを二つ抱えて戻ってきた。

「でも、こういうことにはずいぶん細かいんですね。どれだっていいじゃないですか、別に」

「ところが、そんなことはないんだな」

 俺はグラスを掲げ、解説してやる。

「ワインにこのグラス――専門的には『バルーン』と言うんだが――を使うのは理由がある。一つは口の部分が狭くなっていて香りを逃がさないこと。もう一つは細長い足の部分を持つように出来ていて、手の温度でワインがぬるくなるのを防いでくれること。少しでも旨く酒を呑もうとした先人たちの知恵さ」

 そう言いながら、栓抜きでコルクを開けにかかる。

「二十年もののかなり上等な酒だ。どうせなら美味しく呑むほうがいいだろう。二人の出会いを祝して、ってやつだ」

「え? そんなに気を遣って頂かなくても、安物で……」

 ポン、と軽い音を立ててコルクが抜けた。何とも言えない香りが鼻をくすぐる。

「いいんだよ。そんな理由でも付けなきゃ勿体なくて開けられないからな」

 ニヤリと笑って、瓶を傾ける。グラスに真紅の液体が満たされていく。

「ははぁ、わかりました。要はそのお酒が呑みたかっただけなんですね。……ところでリオマさん」

「ん?」

「十年ものって、腐ったりしないんですか?」

 思わず瓶を取り落としそうになる俺。

「ほ……本気で言ってるのか?」

「少し本気」

 俺は説明する気力も失った。

「ま、いいや……乾杯といこうぜ」

<乾杯!>

「お前には言ってない」

 二つのグラスが重なり、カチャリと音を立てた。











「……リ……さ……、お……て……」

 誰かの声が近くで聞こえる。

「リオマさん、起きて下さい」

 目を開けると、上下さかさまの女の顔が俺を覗き込んでいた。ようやく昨日のことを思い出し、俺はソファからのろのろと起き上がった。

「何だよ。朝っぱらから……」

「もう日が出てからずいぶん経ってますよ」

「それで?」

「起きないんですか?」

 俺はすっかり身支度を整えているユーアを見た。

「悪いが、俺はお前と上手くやっていけそうにない」

「規則正しい生活をしないと、早死にしちゃいますよ」

 母親か何かのような口調をする。

「自分の生き方を押しつけるのは、お互い無しにしようぜ」

 また毛布をかぶろうとする俺を、ユーアは無理やり引っ張り起こした。

「起きて下さいってば。リオマさんがいないと、勝手がわからないじゃないですか」

 抵抗しても無駄だと悟り、俺は立ち上がった。

「ほら、顔でも洗ってきたら? 朝御飯もうすぐ出来ますから」





 昨日と同じ席で、ユーアの作った朝食を摂った。

「美味しい……ですか?」

 ユーアが俺にたずねる。

「五十五点ってとこかな」

「ひどい。材料も道具も良くわからない中で作ったんですよ」

 彼女はふくれっ面をした。

「ともかく、ちゃんと料理出来たんだな、お前」

「これぐらい出来ないと一人で生きていけませんよ。でも……」

 そう言って笑顔に戻る。

「誰かのために食事を作るって、楽しいですね」

「そうかあ?」

「そうじゃないですか?」

<ふふふ、照れとるんや、こいつは>

「黙ってろ! 叩き壊すぞ!」

 ユーアは笑いながら付けていたエプロンをはずし、椅子を確かめてから俺の向かいに腰掛けた。学習能力というヤツだ。

 昨日に比べ、だいぶ元気を取り戻してきたように思える。

「さて、食い終わったらユーアの仕事のあてを探しに行くか」

 パンをかじりながら俺は言う。しかし、ユーアは何やら意味ありげな表情で答えた。

「その必要はありませんよ」

「?」

「私、ここで働くことにしましたから」

「ふーん。そりゃ良かっ……た!?」

 俺は思わずむせ返った。

「別に構いませんよね? リオマさん、優しくて親切な人ですし」

 何だと? ここで働く? 気は確かか、こいつ。

 いや、やはり何かの理由でトチ狂ってんだろう。そうでなけりゃ、この俺に対して『優しくて親切』などという人物評が出てくるわけがない。

「だ、駄目だ! 認めんぞ、俺は!」

「大丈夫です。ウェイトレスくらい私にも出来ますよ」

 そういう問題じゃない。この麒麟亭に若いウェイトレスなんか入れてみろ。そんなことになったら……。

「私の食費と下宿代は給料から引けばいいわけですし。リオマさん、面倒なのは嫌いなんでしょ。それに、私のお給金分くらいは売上を増やしてみせますよ」

「俺はそれが嫌なんだ!」

 そんなことになったら、客がどっと増えるじゃないか。店員がいる以上、毎日店を開けなきゃならんし、今の何倍もの客を相手にするなんて、考えただけでも寒けがする。

「俺の平和で怠惰な生活は誰にも邪魔させんぞ」

「私、昔からあこがれてたんです。可愛い制服なんか着て、笑顔に囲まれて、来てくれるお客さんに安らぎを与えてあげられるんですもの。嗚呼、素敵……」

――聞いちゃあいねえ。

 ついでに言っておくが、麒麟亭に制服などという上等なものはない。

「いいでしょ?」

「さっぱりちっとも全くもって良くない」

 ユーアがむっとした表情で俺を見た。睨み合いが続く。しばらくの後、ユーアはふと目をそらして、誰にとはなしに呟いた。

「大声、上げちゃおうかな……」

「は?」

「独り住まいの男の家に若い女が連れ込まれてたら、ご近所の方たちはどう思うかしら」

こ、このアマ……。

 俺は思わず祈りを捧げた。霊峰カムイよ、俺を昨日の晩まで連れ戻してくれ。そうすれば、俺は二度と同じ過ちを繰り返さないだろう。

「と、契約が成立したところでリオマさん」

「何だ……」

 俺は力なく答えた。もう好きにしてくれ。

「私の給料がかかっている以上、リオマさんにもやり方を改めてもらいますよ?」

 とてつもなく最上級に嫌な予感。

「まず、そのボサボサの髪と不精髭。とても客商売の人とは思えません」

「いいんだよ、思われなくたって」

「不潔です。床屋に行って下さい」

「お前な、雇われてる分際で主人に向かって……」

「あ、自発的に認めてくれたんですね。良かった」

 慌てて言い訳の言葉を探したがもう遅い。

「店長だからこそ、そういう事に気を付けなきゃいけないんですよ」

「散髪なんぞ時間の無駄だ。どうせすぐに伸び……」

 俺が反論しかけると、ユーアが何処で見つけてきたのかハサミを取りだした。かちゃかちゃとそれを鳴らしながら、小悪魔のような微笑を浮かべる。

「私が切ってあげましょうか?」

「留守番を頼む」

 俺はそう言って立ち上がった。一瞬頭の中に、とんでもないヘアスタイルにされた自分の姿が浮かんだからだ。

「いってらっしゃーい」

 ユーアの声を背に受けて、俺は麒麟亭を出た。いつもの癖で扉に鍵をかけようとして、気付く。もう一人ではないのだ。――悲しむべきことに。取り合えず麒麟の像を蹴りつけ て、俺はとぼとぼと歩き出した。





 散髪を終えて床屋から出た俺に、風が吹きつけた。この代金はユーアの給料から引いてやろう。軽くて寒くなったのは頭ばかりではない。

――くそ、すでに心の中であいつを雇うって事が前提になってしまってるじゃないか。儲からなくていいから、俺は気楽に生きたいのに。

 俺を馬鹿にするようにカラスが鳴いた。無性に腹が立ったが、足元には投げつけるのに丁度いい石は見当たらなかった。厄日だ。

 このままトンズラしてやろうかと思ったが、俺がいない間にユーアが何をやらかすか不安だったので、真っ直ぐ麒麟亭に戻る。

 扉の前でまた少し妙な違和感を感じたが、今度は何だかわからなかった。

 どうしてこう、俺を苛立たせる事ばかりなのだろう。俺は麒麟の腹にまた蹴りを入れた。靴跡がクッキリと残った。

 扉を開ける。中で何かしていたユーアが、手を止めてこちらを振り返る。その目が大きく見はられた。

「どうした、見違えたか? 言われた通り切ってきてやったぞ」

 俺の言葉に、ユーアはまだ俺の顔を凝視しながら答える。

「リオマさん……ひょっとして、昔……あ、そこ、足下に気を付けて下さい!」

 何やら言いかけようとしたようだったが、それは途中で俺への注意に変わった。下を見ると、床にゴミやら埃やらが掃き集められている。その時になって初めて、彼女の手に竹箒が握られていることに気が付いた。ここしばらくガラクタに紛れて行方不明だったはずだが――あなどれん女だ。

「何をしている?」

「お掃除です。当たり前でしょう。こんなに汚くて良くお客が来ますね」

「そんなことしたって金は出さんぞ」

「そういう問題じゃないでしょ。ホントにもう……」

 このままだと『手伝え』と言われるのは必至だろう。何とか逃れる方法はないものか……。

「あ、表の石像も綺麗にしておきましたけど、気付いてくれました?」

 うっ。

 俺の動きが止まった。今回は『違和感』の正体を確かめておいたほうが正解だったようだ。

「い、いや、気が付かなかった。もう一度見てくるよ」

 証拠を隠滅せねば。しかし、その俺の袖をユーアが引っ張った。

「どうせそんなこと言って逃げる気でしょう。リオマさんにも手伝ってもらいますからね、店長」

<そうや。こうでもせえへんと掃除せんやろ、お前>

 厄日だ。ぜっっったい厄日だ。掃除を楽しいと感じるような性格なら、普段からもっと綺麗にしている。この小娘め、他に何かする事はないのか……。

――ひらめいた。

「おい、ユーア」

「はい?」

 俺は何気ないふうを装って話しかける。

「良く考えたら、お前にも色々と生活に必要な物があるだろう。服だっていつまでも姉貴のお古を着せとくわけにもいかんしな。これで買い物にでも行ってきたらどうだ」

 コインの入った革袋をユーアに手渡す。彼女の顔がパッと輝いた。

「本当にいいんですか? ありがとうございます!」

 ユーアは後ろも見ずに飛び出していってしまった。

 作戦成功。

 あの中に銅貨が数枚しか入っていないことはすぐに気付くだろう。服どころか髪飾りの一つも買えまい。だが、俺がここから逃げだす時間には充分だ。

<おいリオマ、何処へ行く>

「掃除をしなくて済む所さ」

 鼻歌でも歌いだしたいような気分で、俺は扉を開け外に出た。こんなに簡単に引っ掛かってくれるとは。偉そうな口をきいてもしょせんはガキ――

「『掃除をしなくてすむ所』って、どういう意味ですか、リオマさん?」

 麒麟の像の隣に、壁にもたれるようにしてユーアが立っていた。革袋の紐に指をかけ、くるくると回しながら言う。

「……どうせ、こんなことだろうと思いました。逃げようったってそうはいきませんよ」 ユーアは、言葉に詰まる俺に雑巾を手渡した。

「ちゃんと掃除し直して下さいね、この麒麟」

 …………。

 何者だ、この娘。まるで何もかも、見透かされてるみたいじゃないか。

 いや、そんな事より――

(何故この俺、隗・サァト・リオマがこんな小娘の言いなりにならなきゃならないんだ) その疑問が脳裏をよぎると同時に、我知らず頭にカッと血が上った。

 パシィィン!

 考えるより早く手が出ていた。意外なところで、またぞろ過去に身に付いたものが生活をブチ壊しにする。

 無意識に手加減はしている筈だが、それでも立派に音はした。ユーアが頬を押さえる。

(……しまった……)

 彼女は口をきゅっと結び、うるませた瞳に、怒り、悔しさ、哀しみなどの感情を乗せてじっと俺の顔を見た。

 激情は尻尾を巻いて逃げ去り、後悔の高波が今にも俺を呑み込みそうな所まで迫ってきている。

「いや、その……これは……」

 最悪の事態だ。男として、これ以上に立つ瀬がない状況というものがあるならお目にかかりたい。

「……何やってるの、リー坊」

 背後で声がした。

 聞き覚えのある声だ。

 生まれた時から聞き慣れている声だ。

「事情は良くわかんないけど、女の子に手を上げるなんて……最低の男だね、あんたって子は」

 超最悪の事態だ。『これ以上に立つ瀬がない状況』の御登場である。どうしてこんな時だけ願いが叶いやがるんだ、畜生!

 振り向くことも、ユーアの顔を見ることも出来ず、俺は横を向いた。

 その俺の耳が後ろから掴まれる。



「痛っ、やめてくれよ、シャティ姉!」

 その女性、シャティはユーアに挨拶した。耳を引っ張ったまま。

「初めまして。通りすがりのリオマの姉です」

 よりによってこんな時に通りすがるな。

「さて、中でゆっくり話を聞かせてちょうだい、リオマ」

 ……厄日だ。……何故だ、厄年の前借りをした覚えはないぞ。



「……なるほどね」

 俺の正面、ユーアの隣に座ったシャティはそう言った。

 一通りの説明を終えた俺は、そっぽを向いたままだ。我ながら、悪戯が見つかって叱られている子供、という比喩が良く当てはまると思う。

「このお嬢ちゃん――ユーアちゃんだっけ?――については大体わかったわ。リオマにしては気の利いたことをしたじゃない。けど、それから後はいただけないわねぇ」

「あの、シャティさん。私のほうも悪かったんです。リオマさんの気持ちも考えないで……」

 ユーアが俺とシャティの顔を見比べるようにして言う。

「こんなバカの気持ちなんて考えるだけ無駄よ、ユーアちゃん。あなたは麒麟亭とリー坊のためを思ってしたんでしょう」

「……『リー坊』ってのもいいかげんにやめてくれよ。俺はもう二十七だ」

 ボソボソと不平を述べるが、そんなものに耳を貸すような人じゃない。

「嗚呼、これでようやく麒麟亭も昔みたいに綺麗になるのね……お父さん、お母さん、喜んで下さい……」

「わかった、わかったよっ!」

 俺は立ち上がり、ヤケになって叫ぶ。

「何もかも俺が悪いんだよ! 掃除でもなんでも手伝うから許してくれ!」

「……だそうよ。聞いたわね、ユーアちゃん?」

 ニヤリと笑うシャティ。そのまま隣のユーアの右腕を掴み、俺の前に差し出させる。

「?」

「とゆーことで……ハイ、仲直りの握手」

 子供じゃあるまいし。こういうところが一番苦手なんだ。

「さっさと掃除を済ませちまおうぜ。客が来るまでにある程度片付けなきゃ」

 シャティを無視して俺は背を向ける。後ろでシャティが言った。

「ごめんね。あいつ、女の子の扱いに慣れてないのよ。我慢したげてね」

「……手伝わないんなら、とっとと帰れ二児の母」





 久しぶりの運動は、思ったより体にこたえた。やっぱり歳だな、俺も。

 一ヵ月分はゆうに働いたような気がする。一階の不要物を上に運ぶ俺。テーブルを磨き上げるユーア。何もせずに俺に命令だけするシャティ。

 上に運ぶと言っても、二階にもろくにスペースが残っていないから始末が悪い。午後からは三人がかりで二階の整理をすることになった。

「ちょっとリオマさん、これいったいいつの空き瓶ですか! どうしてこんな所に転がってるんです!」

「リー坊、これ捨てちゃっていいの?」

 二箇所から代わるがわる声がかけられる。

 誤解のないよう言っておくが、散らかっているのは決して俺のせいばかりではない。二年前に、根性無しの倉庫がボヤで再起不能になってしまったのだ。おかげで祖父のコレクションを『疎開』させねばならなかった。絵やら、彫像やら、剣やら、異国の楽器やら、書物やら、挙げ句の果ては、何に使うのかさっぱり見当も付かない虹色の円盤の山や夜中に勝手に歩きだすクマのぬいぐるみ(これは本気で怖い)や……。

「リオマさん、この剣は? なんか大事そうに布にくるまれてたんですけど」

 ユーアに呼ばれ、俺はそちらに行く。

 大人の指先から肘までくらいの刃渡りを持つ小刀だ。

 ……この剣は……。

「貸しな、子供が触るもんじゃない」

 ユーアの手からそれを取り上げる俺。

「―こいつはな、人を斬ったことのある剣なんだ」

「冗談でしょ? 大切な物なら、素直にそう言ってくれれば……」

 ユーアは疑わしそうに、そして不満げに言った。単なる街酒場にそんな物があるわけがないと思うのは、確かに当然だ。が……。

「いや、本当だ」

 俺は元通り布を巻き付け、少し考えた末に木箱の奥にしまった。

「お二人さん、お紅茶淹れたから休憩にしたら?」

<あと十数えたくらいが飲み頃やで>

いつの間に下に降りたのか、シャティの声がした。

「……でも、今の剣」

 俺の後について階段に足をかけながらユーアが言う。

「新しさから見て、お祖父様の物じゃないでしょ……?」

 俺は、その問いには答えなかった。











 ま、そんなこんなでバタバタするうちに、あっさりと陽は沈みかけていた。

「けっこう時間が経っちゃったわね。ダンナと子供がお腹空かせて待ってるわ。じゃあリー坊、しっかりやんなよ」

<また来てや、アネさん>

 パタンと扉が閉まる。ユーアが椅子を並べていた手を止めた。

「素敵なひとですね」

「え? ああ、シャティのことか」

「あったかくて、しっかりしてて」

 そういうもんかねぇ。

「―似てないだろ、俺に」

「あ、いえ、そんな意味で言ったんじゃ……」

「本当の姉じゃないんだ」

 ポツリとそう言う。ユーアがハッとしたようにこちらを見る。

「あいつは捨て子でね。俺の両親が引き取って育てたんだ。そして、数年後に俺が生まれた。だから、俺にとっては生まれた時から姉だったわけで、血のつながりなんかどうでもいいんだけどな」

 記憶の一場面が甦ってきた。

「初めて知ったのは十四の時だったかな。シャティが自分で言ったんだ。『私はリオマの本当の姉じゃない』って。ポロポロ涙を流しながらさ――あのシャティが、泣くんだぜ」 あの時、俺は何と言っていいかわからなかった。しばらく後いつものように『姉ちゃん』と呼んだら、シャティは、とっくに背を追い抜いていた俺を抱きしめた。気恥ずかしい昔話だ。

「でも羨ましいな。私、ひとりっ子でしたから」

 いつの間にか、ユーアが俺のそばに立っていた。「それに、リオマさんがそういうこと話してくれたのも嬉しいです。私は自分のこと、何一つ話せないでいるのに……ずるいですね、私って」

 少し沈黙が続いた。

「悪かったな。その……殴ったこと」

 俺が思い出したように言うと、ユーアはクスッと笑った。

「いいですよ、気にしてませんから」

 やれやれ、許してもらえたようだ。

――などと安堵するほど俺の人生経験は浅くない。今の微笑は『これで貸し一つ』という意味に決まっている。

「兎に角そろそろ開店の時間だ。準備を始めなきゃ……」

 言ってるそばから、客が一人現れた。鍛冶屋のジュトウだ。

「どうした、今日はずいぶん早い御来店だな」

 俺は厨房へ向かいながら言った。ジュトウは意味ありげな含み笑いで答える。

「そりゃあ、なあ……」

 ユーアのほうに視線を注ぐのが、背中ごしにでも手を取るようにわかった。どこで情報を仕入れてくるんだ? まったく……。

 いや、愚問だった。おしゃべりな身内が一人いたっけ。

「いらっしゃいませ。新しく入った住み込み店員のユーアです」

「おい、俺はまだ正式に認めたわけじゃないからな!」

「……店員ということにしといたほうが、いいと思いますよ?」

 どやどやどや。

 数人、いや、十数人の足音がした。

 バタムッ!

 がやがやがや。

「よう、リオマ! 嫁さん貰ったって本当か!?」

「へー、確かにこりゃあ別嬪だ」

「勿体ないぞ、リオマになんか」

 ……こいつら……。

 俺はフライパンを打ち鳴らして怒鳴った。

「やかましい、こいつは単なるウェイトレスだ!」

 ユーアが『ほらね?』とでも言うように笑ってみせた。

――大したお嬢さんだよ、本当に。











 大したお嬢さんだよ、本当に。

 残念ながら、俺はユーアが優秀なウェイトレスであることを認めざるを得なかった。

 彼女がいるだけで、麒麟亭の空気が和らぎ、華やぐのが俺にも感じ取れた。無論まだ手際の悪さがあることは否めないが、笑顔一つでそんなものは吹き飛ばされてしまう。そんな働きぶりだった。

 という訳で、今日の麒麟亭は大盛況である。あーあ、店員一人でこんなに変わるなんて、これまで真面目に働いてたのが馬鹿みたいだ。

 いや、確かにあまり真面目には働いてなかったけどさ。

 最後の客を送り出し、洗い物を片づけながら俺はそんなことを考えていた。

<リオマ、私も洗っとくれ>

 サキョウは客がいる間は喋らない。その分を取り戻すように言う。

「また今度な」

<カビたらどうするんや>

「はいはい」

 サキョウと最後の皿を洗い終え、ユーアの姿を探す。さっきまでテーブルを拭いていたと思ったが。

――彼女はエプロンをしたまま、ソファで寝息をたてていた。

「無理もないか……」

 俺は苦笑する。このままここで寝かせようか、それとも二階に連れて行こうか。俺が近付いても目を覚ます気配はなかった。

 差しのべた指先が肩に触れた。ふと、ユーアの華奢な手が動き、俺の手に重ねられた。 しかし、起きたわけではなさそうだ。

 どんな夢を、見ているのだろうか。

 ユーアの掌の温もりが伝わってきた。

「お父様……」

――眠りの中で、彼女はそう呟いた。

 俺なんかの立ち入る隙もないくらい、深い愛情と、そして哀しみとを含んだ呟きだった。 俺なんかがこうしてのうのうと暮らしているのに、こんな若い娘が何か辛い出来事を抱えて生きているのだ。それも、こんな俺のもとで。

 俺はユーアの手をそっと払った。

 彼女の温もりが、今は痛すぎた。


Posted by 白川 嘘一郎 at 21:44│Comments(0)
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