2010年09月27日

◆ 序




 ――夜の(とばり)と、しじまの中に。

 ほんのかすかに血の匂いが漂う。

「畜生……」

 男は呻いた。腕の傷がうずく。先程付けられたばかりの傷だ。

 仲間もすでに何人かやられている。型だけの剣術など生死を賭けた本当の戦いでは何の役にも立たないことに、彼は気付き始めていた。

 だが、それを認めるわけにはいかない。それは即ち彼の死を意味する。

 王女は……無事なのか。

 頭に浮かぶのはそのことばかりだ。選び抜かれた精鋭である筈の自分たちが、護衛としての任務に完全に失敗してしまった。

 ―人の近付く足音がした。……ような気がした。

 押し殺した自分の吐息さえ、闇の中で自分を狙っている獣の唸りのように聞こえる。心臓の鼓動が辺り一帯に響き渡っているように感じられる。

 王女は……。

 再度そう考える。任務の失敗。いずれにしても、彼を待つのは死だ。仮にこの敵から逃れ得たとしても、彼の首を切り落とす相手が異なるだけの話。

「うぉぉっ!!」

 彼は叫び声を上げ、物陰から飛び出した。敵の気配めがけ、盲滅法に武器を振り回す。

 ――返ってくるのは、空を切る感触だけだった。

 ザシュッ。

 胸に灼けつく痛みが走った。肉を裂く冷たい金属の感触を、彼は確かに感じた。

 最初は指先から、そして徐々に全身へと、体の感覚が失われていき、彼はゆっくりと後ろに倒れた。胸から腹に、筋肉の隆起に沿って生温かい液体が流れる。

 『血が赤い』なんて、何の意味もない知識だな。彼はぼんやりとそう思う。

 ほら、実際自分が流す時は、色なんて全然わかりゃしない……。

 彼の思考はそこで止まった。

 握った手から力が抜け、剣が地面に転がって小さな音を立てた。まるで弔いの鈴のように。



 かすかに血の匂いが漂う。

 ――夜の帳と、しじまの中に。



Posted by 白川 嘘一郎 at 21:38│Comments(0)
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