2010年09月27日

◆ 序




 ――夜の(とばり)と、しじまの中に。

 ほんのかすかに血の匂いが漂う。

「畜生……」

 男は呻いた。腕の傷がうずく。先程付けられたばかりの傷だ。

 仲間もすでに何人かやられている。型だけの剣術など生死を賭けた本当の戦いでは何の役にも立たないことに、彼は気付き始めていた。

 だが、それを認めるわけにはいかない。それは即ち彼の死を意味する。

 王女は……無事なのか。

 頭に浮かぶのはそのことばかりだ。選び抜かれた精鋭である筈の自分たちが、護衛としての任務に完全に失敗してしまった。

 ―人の近付く足音がした。……ような気がした。

 押し殺した自分の吐息さえ、闇の中で自分を狙っている獣の唸りのように聞こえる。心臓の鼓動が辺り一帯に響き渡っているように感じられる。

 王女は……。

 再度そう考える。任務の失敗。いずれにしても、彼を待つのは死だ。仮にこの敵から逃れ得たとしても、彼の首を切り落とす相手が異なるだけの話。

「うぉぉっ!!」

 彼は叫び声を上げ、物陰から飛び出した。敵の気配めがけ、盲滅法に武器を振り回す。

 ――返ってくるのは、空を切る感触だけだった。

 ザシュッ。

 胸に灼けつく痛みが走った。肉を裂く冷たい金属の感触を、彼は確かに感じた。

 最初は指先から、そして徐々に全身へと、体の感覚が失われていき、彼はゆっくりと後ろに倒れた。胸から腹に、筋肉の隆起に沿って生温かい液体が流れる。

 『血が赤い』なんて、何の意味もない知識だな。彼はぼんやりとそう思う。

 ほら、実際自分が流す時は、色なんて全然わかりゃしない……。

 彼の思考はそこで止まった。

 握った手から力が抜け、剣が地面に転がって小さな音を立てた。まるで弔いの鈴のように。



 かすかに血の匂いが漂う。

 ――夜の帳と、しじまの中に。


  



Posted by 白川 嘘一郎 at 21:38Comments(0)

2010年09月27日

◇ 壱、「明朗会計銅貨四枚」



ここカディアルの街に、黄昏が訪れようとしていた。そろそろ陽の落ちるのが早くなる季節だ。

――毎日のことながら、規則正しくお勤めを果たす太陽に拍手の一つも送りたくなる。俺だったらこんな日は、とっとと家に帰って酒でも呑んで寝ちまうだろう。

姓は(かい)、名はサァト。

 ただし家族や知り合い連中にはリオマと呼ばれてる。まあ、(あざな)ってやつだ。

 小さいながらも酒場一軒の主、それが俺だ。ちょいと背伸びをすれば、三十路に手が届く。このまま酒場の親父で一生を終えるには若すぎると、自分でもたまには考えるが、さりとて何をしようという気も起こらない。無気力で自堕落な不良中年、てところだ。

「よう、リオマ」

 そんな事を考えながら、人通りもまばらになった通りを歩いていると、顔見知りの八百屋が声をかけてきた。知り合いといっても、はっきり言って好きなタイプではない。答える気にもなれなかったので無視する事にする。

「おい、リオマってば……隗・サァト・リオマ!」

「やかましい。何か用か」

 あまりにしつこいので、俺は顔も向けずに答えた。脂ぎったそいつの顔の下品な唇から、俺の名前が何度も出るのは耐え難い。

「今日は何も買ってかないのかい? どれも新鮮だぜ」

「嘘つけ」

 日が暮れてから野菜を買いに来る奴はいない。売れ残りを俺に押しつけようとしていることは明白だ。まあ、ウチの客が不味い野菜を食おうが、俺は別に構わないんだが……。

「うんとオマケするからさあ」

 突き出た腹を撫でながら言う八百屋に、俺は肩をすくめてみせた。ポケットの中の物を掴み取り、掌を広げて奴の前に突き出す。

 家の鍵。紙くず。火打ち石。何処から入ったか小石が数個。金目の物は何も無い。

「これで何か売ってくれるか?」

「…………」

 しばらく前まではこの中にも多少のコインが入っていたのだ。昼頃につまみの材料でも仕入れに行こうと外に出たが、やくざ友達にバッタリ会い、誘われるままカード勝負に加わったのがまずかった。世の中というのは上手く出来たもので、ポケットが軽くなった分だけ気分が重くなったというわけだ。

「リオマよ、もう少し真面目に生きろよ……」

「余計なお世話だ」

 俺は足早にそこを離れた。八百屋はすぐに新たな犠牲者を見つけたらしい。自分の店のキャベツがいかに安くて旨いか、力説する声が後ろから聞こえてきた。





 樫の木通りからカラス小路を少し入った所に、煉瓦造りの二階建ての建物がある。麒麟亭――俺のねぐらであり、仕事場だ。やたらとボロい。不精な俺が手入れをしっかりと怠っているせいだ。古ぼけた看板が無ければ誰も酒場と気付かないだろう。

 玄関の扉の両脇には麒麟の石像が立っている。俺のじいさんがこの酒場を建てた時に置かれたもの、つまり俺よりずいぶん年寄りだ。当時、麒麟などという生き物の伝説は完全に異国の文化だったから、祖父の物好きの度合いがわかるというものだ。

 ちなみに右の麒麟の尻尾は、昔俺がいたずらして割ってしまったので、無い。祖父がこれを置いたのは客寄せ兼お守りのつもりだろうが、チャンバラの練習台にしたくらいで尾が欠けるようでは、聖獣麒麟の加護もたかが知れている。

 俺はそれらの見飽きた景色を尻目に、錠を外して木の扉を押し開けようとした。これまで数え切れないほど繰り返してきた動作の筈だった。

 しかしその時だ。頭の中にかすかな違和感が巣食っていることに気付いた。それの正体を確かめるべく、俺は辺りを見渡した。

 夕日に赤く染まった看板。煉瓦の壁。そこにもたれかかるボロきれにくるまれたゴミ。一対の麒麟の石像。屋根にとまるカラス。

 看板も壁も石像もカラスもいつも通りだし、あとは……。

 ……ゴミ……?

「貴様か、人んちの玄関の調和を乱してる奴は!」

 誰が捨てていったか知らないが、機嫌の悪さも手伝って、俺はそのボロをまとった物体に蹴りを入れた。

 ごろり。

 何やら転がり方が不自然だ。足に当たった感触も妙に柔らかい。

(もしかして生き物じゃねぇだろうな……)

 俺はそう思った。前にも一度、店の前に犬が捨てられていた事があったのだ。あれは近所のガキにくれてやったが、そうでなかったらスープの材料になっていただろう。全く可哀相な事をする奴がいるものだ。そういう連中は、一度自分が代わりに捨てられてみればいい。

 ――それはともかくとして、今度のは大きさが違う。犬などという可愛いものじゃない。見たところこのゴミは、小柄な人間ほどの大きさはある。

 俺は恐る恐るボロきれをめくってみた。まさかとは思うが、猛獣や毒のある生き物の類だったら洒落にならない。

 ボロの合間から、『中身』が覗いた。それは確かに小柄な人間ほどの大きさだった。それも当然、小柄な人間以外の何ものでもなかったからだ。

 まだ息はあるようだ。

さて、この人物の正体について考えられるのは三つ。行き倒れか、他人の家の前でボロにくるまって寝るのが趣味なのか、あるいは飼い犬に捨てられた人間か、いずれかだ。

 ……もし二番目か三番目なら絶対に関わり合いたくないが、とは言え一番目でも困る。こんな所で昇天された日には、客が寄りつかないし寝覚めも悪い。

 取り合えず、別の場所に運ぶとするか。

 俺はそいつを抱き起こした。助けてやる気はなかった。その時までは。

 布がさらに少しめくれ、汚れた顔が半分ばかりあらわになった。

 女。

俺はため息を一つつき、続いて舌打ちをした。自分で思っていたより、俺は紳士だったらしい。

 ――こうして、麒麟亭は奇妙な客を一人迎えることにあいなったのである。





 夕食と、店を開ける準備をしながら、俺は古ぼけたソファに目をやった。その上には例の娘が横たえられている。あれから半刻ばかり経った。しかし、彼女はまだ眠ったままだ。

 もうすぐ五月蠅い客たちが、一日の仕事を終えてなだれこんで来る頃だ。

 四年前、親父が死んで俺の代になってから、麒麟亭は酒場と呼ぶには抵抗がある代物になっていた。もともとそんな高級な店でもなく、庶民的な一膳飯屋といった感じであったが――
 一階は客を迎える筈のスペースでありながら、俺の生活空間と化している。ガラクタだらけだ。二階となるとさらにひどく、物置状態で座る場所さえ残されていない。そんなわけでここに寝かせたままなのだ。

「本日休業の札でも掛けとくか……」

 気乗りがしない日は店を開けないなんてしょっちゅうだから、別に困りはしない。こんな店に客が来てくれるのはひとえに他に酒場がないからだ。あと、強いて言うなれば、若い頃に港街なんかを渡り歩いていたせいで、俺が海の向こうの異国風料理に多少は通じているおかげだろうか。

 もっとも近頃では、島国のこのセイグルにもどんどん異国文化が流れ込んで来ているし、俺の料理がそれほどもの珍しくなくなる日も遠くないだろう。

 ……いっそ、潰れてしまえば。

 いつものようにそう考える。もちろん、積極的に店を畳んで何かをしようという考えはない。いつもの事だ。

「……う……んん……」

 娘が眠りの淵から小さく声を上げ、俺は物思いから引き戻される。泥まみれの栗色の髪が揺れるのを見て、考えた。歳は幾つぐらいだろう?

 まだ幼いとも言えるほど若い顔だちである。十七、八には達してるようだが、この年頃の女の年齢は良くわからない。それにしても、何故行き倒れなんぞ……。

 娘のまぶたがかすかに震えた。ややあって、それはゆっくりと開かれる。

「気が付いたか?」

 我ながら陳腐で間の抜けた台詞だ。

「ここは……」

 まだ焦点の合わないぼんやりとした表情で呟く娘。

「麒麟亭っていうチンケな酒場さ。あんたが倒れてた所だ」

 彼女はそろそろと身を起こした。口を開こうとするのを手振りで制する。

「あまり喋らない方がいい。食事の支度をするから少し待っててくれ」

 熱いシチューを皿に移す。胃が弱っているうちは、このくらいの物がいいだろう。

 スプーンを添えて彼女の前に出してやる。彼女はシチューを少しずつ口に運び始めた。

 二杯目の皿の中身があらかた無くなった頃を見計らって、俺は娘に話しかけた。

「落ち着いたか?」

「はい……どうもありがとうございます……」

「そりゃ良かった。じゃ、銅貨四枚出してもらおうか」

 娘は何の事かわからないといった様子で俺の顔を見る。

「代金」

 そう言って空の皿を指さす。

「お金……取るんですか……?」

「当然だ。他ならともかく、こちとら食い物を扱う商売だからな」

「でも私、その、持ち合わせが……」

 うつむきながら娘は小声で言った。

「わかってる。金持ってて行き倒れるバカはいねえよ。ツケにしとくからいつでも払いに来な」

 実は、本気で金を取ろうなどと考えていた訳ではない。まわりくどいやり方だが、縁もゆかりもない行き倒れに無料で飯を食わせたとあっちゃ、これまでちゃんと勘定を払ってきた客に申し訳が立たないからだ。

「私、ユーアと言います」

 彼女は顔を上げ、はっきりとした口調で言った。

「どうも色々とお世話になりました。このお礼は必ず……」

 言いながらペコリと頭を下げ、ユーアは立ち上がった。背は俺の肩にも届かない。思ったよりも、小柄で、細くて、か弱い身体だ。俺は心の中で二回目のため息をついた。

「行くあてはあるのか?」

 俺の言葉に立ち止まるユーア。もの言わぬ背中が答えを返す。

「良ければ、ついでに寝床くらいは提供してやってもいいぜ。こんなむさ苦しい所に泊まりたくない気持ちもわかるが、この時間に外をうろつくよりマシだろう」

 ユーアは振り向いた。髪と同じ栗色の瞳に俺が映った。

「本当にいいんですか? でも、やっぱり……」

「心配するな。ちゃんと金は取る」

 俺の冗談にユーアは初めて笑顔を見せた。緊張が解けてきたらしい。

「俺は隗・サァト。リオマと呼ばれてる。取り合えず、お前さんの部屋を何とかしよう。……そうそう、さっき寝てた間に汚れた服と体も何とかしてやろうと思ったんだが、なにぶん女手が無いもんでな」

 それを聞いて、ユーアは気が付いたように自分の体を見回し、恥ずかしいような、困ったような表情を浮かべた。

「ま、後で風呂にでも入ればいい」

「お風呂があるんですか?」

 はずんだ声を上げる。

「そうだな、じゃあ先に入っておいてくれるか。その間に部屋を片付けるから」

 俺はユーアを連れて、奥の浴室に入った。

「珍しいですね。自分の家にお風呂があるなんて」

「まあな。その代わり、ちょっと変わった風呂だが」

 怪訝そうな顔のユーアに、俺は空っぽの湯船を指さして見せた。

「俺のじいさんは結構凄腕の冒険家――ついでに珍品好きの好事家でね。世界中の珍しい魔術の品なんかを収集してたのさ。例えばこれ、『いくらでも湯が湧き出る壺』とかな」

 俺が三度手を鳴らすと、たちまち置いてあった壺の口から湯があふれ始めた。

「でも、このお湯……」

 湯気に包まれた壺を見つめて、ユーアが言う。

「なんか、緑色してるんですけど」

「気にするな。色は緑だが正真正銘普通の湯だ。じき慣れる」

「……あんまり慣れたくないなあ、私」

 確かに、どぎつい緑の湯は最初は気味悪いだろう。生まれた時から慣らされている俺はともかく、普通に生活していれば、『魔術の品』などにそうそうお目にかかれるものではない。

「それじゃ、適当に入っててくれ。俺は二階にいる」

 そう言い残して、俺は階段に向かった。浴室を出る時ちらりと振り返ってみると、ユーアはぼんやりと水面を眺めながら何か考えているようだった。

 麒麟亭の二階は昔、宿泊施設としても使われていたらしい。だから部屋数はそこそこある。

 それが今やガラクタ置場な訳だが、一つだけかろうじて使えそうな部屋がある。七年前に嫁いだ姉の部屋だ。あまりの少女趣味に体が拒否反応を起こすので、ろくに入ったこともない。中身もほぼ七年前そのままのはずだ。

 二階の右手二つ目の部屋。床の木箱などを踏み越え、扉を開ける。人形や何やかやの小物や花柄模様が俺を出迎えた。俺はそれらの無言の重圧に耐えながら窓を開け、溜まった埃をはたき出す。この部屋だけは姉が、帰ってくる度に自分で掃除しているから片付いてはいるが、ほったらかしているとやはりこうなる。しばらく悪戦苦闘していると、階下で俺を呼ぶ声がした。

「リオマさぁんっ!」

 緊迫した調子が伺える。咳き込みながら、俺は一階に駈け下りた。床に無造作に置かれていた本を蹴飛ばして、浴室に走る。

「どうした!?」

 ノブに手をかけて怒鳴ると、

「開けないで!」

 悲鳴に近い声が上がった。

「……服、脱いじゃってるんです」

「俺は別に構わんが」

「構います! そんなことより、お湯が止まらないんですけど!」

「さっきと同じように三回手を叩け。そうすれば止まる」

 それだけ言って、俺は踵を返した。

 今の騒ぎで思い出したが、いったいあの娘は何者なのだろう。見たところ家出娘といった感じだが、それにしては妙なところがある。普通に育った若い女が、他人の家で無防備に風呂など入るだろうか? 要するに旅慣れているのだ。一人で。あの年で。それとも年頃の娘としては、自分の体を清潔にしておきたいという欲求は、何物にも勝るのだろうか?

他にもわからない事は山ほどあるが――まあ、知らねばならない事ならいずれ向こうから言ってくるだろう。余計な詮索でわざわざ心を閉ざさせる事もない。

(相手の事より、お前自身はどうなんだ、リオマ?)

 冷静なもう一人の自分が俺に問いかける。

(どうするつもりだ。ユーアというあの娘を。このまま麒麟亭においてやるのか)

 しばらくの間だ。たった一人で放り出すわけにはいかない。

(何故だ。何故あんな女にこだわる)

 ……女……か。

思い出してはいけない過去を思い出しそうになり、俺は慌てて頭を振った。

 どうでもいい事だ。もう、どうでもいい事だ。

 数日泊めてやったところで誰が困るわけでもない。俺は余計な事を考えないようにして掃除を続けた。

「よし、こんなものだろう」

 独りごちて、部屋を見渡す。どうせ寝るのはユーアだし。

 おっと、そうだ。俺はふと思いついて、箪笥の中から適当に姉の古着を引っ張りだした。寸法のほうは……まあ何とかなるか。

 とんとん。

 階段を昇ってくる足音が聞こえた。さっきの汚れた服を着て、頭にタオルを巻いたユーアだ。

「ちょうど良かった。ひとまずこの部屋を使っておいてくれ」

 俺の肩ごしに部屋を覗き込んだユーアは嬌声を上げた。

「わあ、可愛い! リオマさんのお部屋ですか?」

「……殴るぞ、お前」

 そのまま彼女とすれ違うように部屋を出る。

「ベッドの上に服が置いてある。人のお古が嫌でなければ使え」

 階に足をかけた時、後ろから声がした。

「どこで寝るんですか、リオマさんは?」

「下のソファで寝るよ」

「そんな。悪いです、私のために」

 だから俺の部屋じゃないんだってば……。俺は振り返らずに階段を降りながら答えた。

「気にするな。面倒なんで普段からあそこをベッドがわりにしてんだ」





 すっかり忘れ去っていた俺の夕食は、まるでそのことをすねているかのような味だった。客用のテーブルの上で、黙々とそれを平らげる。そう言や、本当に店を開けるのを忘れていたな。ま、いつものことだから誰も気にしないだろう。

 冷めた焼き魚を口に入れる。商売柄、料理は苦手じゃないが、やっぱり俺一人のためだけに作るのはうざったい。……これから当分は二人分か。いや、あいつも一応女だから飯くらい作ってくれるとありがたいんだが。

 いくぶん偏見っぽい希望を思い描いていると、上の方で見慣れない色彩が動いた。

 と思ったら、姉の服を着たユーアだ。そのまま階段を軽やかに降りてくる。

「休まなくて大丈夫か?」

「はい。昼間ずっと寝ていたようなものですから」

 苦笑しながら答え、ユーアは俺の向かいの椅子に座ろうとした。

「あ」

 注意しかけた俺の声も間に合わず、腰を下ろすユーア。一拍遅れてポキリと軽い音が響き、椅子の脚が一本根元から折れた。当然バランスを崩したユーアは椅子ごと床にひっくり返る。

「悪いな、そいつは壊れてたんだ。大丈夫か?」

「なんでそんなの置いとくんですか!」

 今度は苦笑を浮かべる余裕があるほど大丈夫ではなかったらしい。憮然とした表情で起き上がり、スカートの裾を直して埃を払いながらユーアが非難した。

「いや何……捨てに行くのも面倒だったから」

「面倒じゃないでしょ! 怪我したらどうするんです」

「ウチの客はみんな知ってるから座らんぞ。そのうち修理しようとは思ってたんだが」

 ……しかし、思ったより気が強いな。このお嬢さんは。

 ぶつぶつ言いながらユーアは隣の席から新しい椅子を運んできた。

「ところで、ユーアさんよ」

 椅子を軽く手で押してみて強度を確かめているユーアに尋ねた。

「本当に行くあてだとか、あるいは帰るあてだとかは無いのか? 追い出したり説教したりする気はないが、金と手間のかからんことなら相談に乗ってもいい」

 事情は知らないが、この年頃なら心配してくれる人間が居るんじゃないか。そう思っての問いだった。

「ありがとうございます。でも、いいんです。別に戻る所なんてありませんし……。しばらくこの街で働いてみようと思ってます。仕事を見つけるまでの間、ここに居させてもらっても構いませんよね?」

 屈託のない微笑みをこちらに向け、俺の顔を見る。俺は目をそらした。

「ねえ、私からも聞いていいですか?」

 俺の答えを聞こうともせず、ユーアは言葉を続けた。

「リオマさんて、一体どういう人なんですか。知ってるのはまだ、酒場の主人って事だけ。生い立ちとか、昔の事とか……そういうの、聞きたいな」

 チッ。一番話すのが面倒なとこを突いてきやがる。

「別に面白い話はねえぞ。俺のじいさん――さっきもちょっと言ったが――が結構な財産とこの酒場を遺して、親父が馴染み客を増やしたりしてかなりの儲けが出るくらいまで店を大きくして……そして今は、あとを継いだ俺が貯えを食いつぶしてる毎日さ。歳は二十七。独身。趣味は酒と昼寝と博打。両親はどっちも死んで、あと姉が約一名。そんなとこだな」

 よくある手法で、嘘は言っていないが全部を語ったわけでもない。若い娘には知る必要のない話だ。

 これ以上深く突っ込まれても困るな。よし、何とかして誤魔化そう。

「ユーア、お前、酒は呑めるか?」

「ええ。少しだけなら」

 その返事を聞いて、俺は立ち上がった。

「そいつは感心だ。ワインでも開けるからグラスを用意しといてくれ。そこの食器棚にある」

 酒場の一角に、俺の趣味で畳をしいた場所がある。五十年前まで隣国だったミラ国から、ミラ文字や姓の概念などと同時に伝えられた文化の一つで、独特の香りと座り心地が気に入っているのだ。その中の畳を一枚上げると、ちょっとした地下室への入口が現れる。酒類の貯蔵庫だ。

 瓶の並んだ棚から一本を取り出し、ユーアの待つ席へと戻る。しかし、その上に置かれた物を見て俺は呆れ返った。

「おい、お前はワインをマグカップで呑むのか」

「え……そのコップじゃいけないんですか?」

 この顔は本気で言ってやがるな。何てこった。

「チューリップの花みたいな形のグラスがあったろ。普通はそれを使う。この家で暮らすならその程度は覚えといてくれ」

 ユーアは不満そうに木製のマグカップを持ち去り、食器棚に戻した。

「ええと、どのグラスですか……?」

<二番目の段の右端のほう>

「ありがとう」

 ユーアの動きがふと止まった。

 カウンターの上の、彼女に返事をした物体をまじまじと見つめる。

「り、り、リオマさん!」

「どうした」

「ぽ、ポットが……しゃ、喋りましたよ!?」

「喋るよ、そいつは」

 俺は事もなげに答えた。

<リオマ、女の子にお酒なんか呑ませて変な事をする気ちゃうやろな>

「黙ってろ、サキョウ」

「……。これもお祖父様のコレクション?」

 まだ少し気味悪そうにユーアが言う。

「今日は無口だったから紹介するのを忘れてたぜ。喋るティーポットのサキョウだ」

<よろしく、お嬢さん>

「は、はあ……」

 ユーアは恐る恐る近づいてサキョウを手に取った。ためつすがめつ眺める。

「良く出来てますね……」

<落とさんといてな>

「リオマさん、この家って、こんな物ばっかりなんですか」

「他にも見たいか?」

「いえ……結構です」

 ユーアはサキョウを元の位置に戻すと、グラスを二つ抱えて戻ってきた。

「でも、こういうことにはずいぶん細かいんですね。どれだっていいじゃないですか、別に」

「ところが、そんなことはないんだな」

 俺はグラスを掲げ、解説してやる。

「ワインにこのグラス――専門的には『バルーン』と言うんだが――を使うのは理由がある。一つは口の部分が狭くなっていて香りを逃がさないこと。もう一つは細長い足の部分を持つように出来ていて、手の温度でワインがぬるくなるのを防いでくれること。少しでも旨く酒を呑もうとした先人たちの知恵さ」

 そう言いながら、栓抜きでコルクを開けにかかる。

「二十年もののかなり上等な酒だ。どうせなら美味しく呑むほうがいいだろう。二人の出会いを祝して、ってやつだ」

「え? そんなに気を遣って頂かなくても、安物で……」

 ポン、と軽い音を立ててコルクが抜けた。何とも言えない香りが鼻をくすぐる。

「いいんだよ。そんな理由でも付けなきゃ勿体なくて開けられないからな」

 ニヤリと笑って、瓶を傾ける。グラスに真紅の液体が満たされていく。

「ははぁ、わかりました。要はそのお酒が呑みたかっただけなんですね。……ところでリオマさん」

「ん?」

「十年ものって、腐ったりしないんですか?」

 思わず瓶を取り落としそうになる俺。

「ほ……本気で言ってるのか?」

「少し本気」

 俺は説明する気力も失った。

「ま、いいや……乾杯といこうぜ」

<乾杯!>

「お前には言ってない」

 二つのグラスが重なり、カチャリと音を立てた。











「……リ……さ……、お……て……」

 誰かの声が近くで聞こえる。

「リオマさん、起きて下さい」

 目を開けると、上下さかさまの女の顔が俺を覗き込んでいた。ようやく昨日のことを思い出し、俺はソファからのろのろと起き上がった。

「何だよ。朝っぱらから……」

「もう日が出てからずいぶん経ってますよ」

「それで?」

「起きないんですか?」

 俺はすっかり身支度を整えているユーアを見た。

「悪いが、俺はお前と上手くやっていけそうにない」

「規則正しい生活をしないと、早死にしちゃいますよ」

 母親か何かのような口調をする。

「自分の生き方を押しつけるのは、お互い無しにしようぜ」

 また毛布をかぶろうとする俺を、ユーアは無理やり引っ張り起こした。

「起きて下さいってば。リオマさんがいないと、勝手がわからないじゃないですか」

 抵抗しても無駄だと悟り、俺は立ち上がった。

「ほら、顔でも洗ってきたら? 朝御飯もうすぐ出来ますから」





 昨日と同じ席で、ユーアの作った朝食を摂った。

「美味しい……ですか?」

 ユーアが俺にたずねる。

「五十五点ってとこかな」

「ひどい。材料も道具も良くわからない中で作ったんですよ」

 彼女はふくれっ面をした。

「ともかく、ちゃんと料理出来たんだな、お前」

「これぐらい出来ないと一人で生きていけませんよ。でも……」

 そう言って笑顔に戻る。

「誰かのために食事を作るって、楽しいですね」

「そうかあ?」

「そうじゃないですか?」

<ふふふ、照れとるんや、こいつは>

「黙ってろ! 叩き壊すぞ!」

 ユーアは笑いながら付けていたエプロンをはずし、椅子を確かめてから俺の向かいに腰掛けた。学習能力というヤツだ。

 昨日に比べ、だいぶ元気を取り戻してきたように思える。

「さて、食い終わったらユーアの仕事のあてを探しに行くか」

 パンをかじりながら俺は言う。しかし、ユーアは何やら意味ありげな表情で答えた。

「その必要はありませんよ」

「?」

「私、ここで働くことにしましたから」

「ふーん。そりゃ良かっ……た!?」

 俺は思わずむせ返った。

「別に構いませんよね? リオマさん、優しくて親切な人ですし」

 何だと? ここで働く? 気は確かか、こいつ。

 いや、やはり何かの理由でトチ狂ってんだろう。そうでなけりゃ、この俺に対して『優しくて親切』などという人物評が出てくるわけがない。

「だ、駄目だ! 認めんぞ、俺は!」

「大丈夫です。ウェイトレスくらい私にも出来ますよ」

 そういう問題じゃない。この麒麟亭に若いウェイトレスなんか入れてみろ。そんなことになったら……。

「私の食費と下宿代は給料から引けばいいわけですし。リオマさん、面倒なのは嫌いなんでしょ。それに、私のお給金分くらいは売上を増やしてみせますよ」

「俺はそれが嫌なんだ!」

 そんなことになったら、客がどっと増えるじゃないか。店員がいる以上、毎日店を開けなきゃならんし、今の何倍もの客を相手にするなんて、考えただけでも寒けがする。

「俺の平和で怠惰な生活は誰にも邪魔させんぞ」

「私、昔からあこがれてたんです。可愛い制服なんか着て、笑顔に囲まれて、来てくれるお客さんに安らぎを与えてあげられるんですもの。嗚呼、素敵……」

――聞いちゃあいねえ。

 ついでに言っておくが、麒麟亭に制服などという上等なものはない。

「いいでしょ?」

「さっぱりちっとも全くもって良くない」

 ユーアがむっとした表情で俺を見た。睨み合いが続く。しばらくの後、ユーアはふと目をそらして、誰にとはなしに呟いた。

「大声、上げちゃおうかな……」

「は?」

「独り住まいの男の家に若い女が連れ込まれてたら、ご近所の方たちはどう思うかしら」

こ、このアマ……。

 俺は思わず祈りを捧げた。霊峰カムイよ、俺を昨日の晩まで連れ戻してくれ。そうすれば、俺は二度と同じ過ちを繰り返さないだろう。

「と、契約が成立したところでリオマさん」

「何だ……」

 俺は力なく答えた。もう好きにしてくれ。

「私の給料がかかっている以上、リオマさんにもやり方を改めてもらいますよ?」

 とてつもなく最上級に嫌な予感。

「まず、そのボサボサの髪と不精髭。とても客商売の人とは思えません」

「いいんだよ、思われなくたって」

「不潔です。床屋に行って下さい」

「お前な、雇われてる分際で主人に向かって……」

「あ、自発的に認めてくれたんですね。良かった」

 慌てて言い訳の言葉を探したがもう遅い。

「店長だからこそ、そういう事に気を付けなきゃいけないんですよ」

「散髪なんぞ時間の無駄だ。どうせすぐに伸び……」

 俺が反論しかけると、ユーアが何処で見つけてきたのかハサミを取りだした。かちゃかちゃとそれを鳴らしながら、小悪魔のような微笑を浮かべる。

「私が切ってあげましょうか?」

「留守番を頼む」

 俺はそう言って立ち上がった。一瞬頭の中に、とんでもないヘアスタイルにされた自分の姿が浮かんだからだ。

「いってらっしゃーい」

 ユーアの声を背に受けて、俺は麒麟亭を出た。いつもの癖で扉に鍵をかけようとして、気付く。もう一人ではないのだ。――悲しむべきことに。取り合えず麒麟の像を蹴りつけ て、俺はとぼとぼと歩き出した。





 散髪を終えて床屋から出た俺に、風が吹きつけた。この代金はユーアの給料から引いてやろう。軽くて寒くなったのは頭ばかりではない。

――くそ、すでに心の中であいつを雇うって事が前提になってしまってるじゃないか。儲からなくていいから、俺は気楽に生きたいのに。

 俺を馬鹿にするようにカラスが鳴いた。無性に腹が立ったが、足元には投げつけるのに丁度いい石は見当たらなかった。厄日だ。

 このままトンズラしてやろうかと思ったが、俺がいない間にユーアが何をやらかすか不安だったので、真っ直ぐ麒麟亭に戻る。

 扉の前でまた少し妙な違和感を感じたが、今度は何だかわからなかった。

 どうしてこう、俺を苛立たせる事ばかりなのだろう。俺は麒麟の腹にまた蹴りを入れた。靴跡がクッキリと残った。

 扉を開ける。中で何かしていたユーアが、手を止めてこちらを振り返る。その目が大きく見はられた。

「どうした、見違えたか? 言われた通り切ってきてやったぞ」

 俺の言葉に、ユーアはまだ俺の顔を凝視しながら答える。

「リオマさん……ひょっとして、昔……あ、そこ、足下に気を付けて下さい!」

 何やら言いかけようとしたようだったが、それは途中で俺への注意に変わった。下を見ると、床にゴミやら埃やらが掃き集められている。その時になって初めて、彼女の手に竹箒が握られていることに気が付いた。ここしばらくガラクタに紛れて行方不明だったはずだが――あなどれん女だ。

「何をしている?」

「お掃除です。当たり前でしょう。こんなに汚くて良くお客が来ますね」

「そんなことしたって金は出さんぞ」

「そういう問題じゃないでしょ。ホントにもう……」

 このままだと『手伝え』と言われるのは必至だろう。何とか逃れる方法はないものか……。

「あ、表の石像も綺麗にしておきましたけど、気付いてくれました?」

 うっ。

 俺の動きが止まった。今回は『違和感』の正体を確かめておいたほうが正解だったようだ。

「い、いや、気が付かなかった。もう一度見てくるよ」

 証拠を隠滅せねば。しかし、その俺の袖をユーアが引っ張った。

「どうせそんなこと言って逃げる気でしょう。リオマさんにも手伝ってもらいますからね、店長」

<そうや。こうでもせえへんと掃除せんやろ、お前>

 厄日だ。ぜっっったい厄日だ。掃除を楽しいと感じるような性格なら、普段からもっと綺麗にしている。この小娘め、他に何かする事はないのか……。

――ひらめいた。

「おい、ユーア」

「はい?」

 俺は何気ないふうを装って話しかける。

「良く考えたら、お前にも色々と生活に必要な物があるだろう。服だっていつまでも姉貴のお古を着せとくわけにもいかんしな。これで買い物にでも行ってきたらどうだ」

 コインの入った革袋をユーアに手渡す。彼女の顔がパッと輝いた。

「本当にいいんですか? ありがとうございます!」

 ユーアは後ろも見ずに飛び出していってしまった。

 作戦成功。

 あの中に銅貨が数枚しか入っていないことはすぐに気付くだろう。服どころか髪飾りの一つも買えまい。だが、俺がここから逃げだす時間には充分だ。

<おいリオマ、何処へ行く>

「掃除をしなくて済む所さ」

 鼻歌でも歌いだしたいような気分で、俺は扉を開け外に出た。こんなに簡単に引っ掛かってくれるとは。偉そうな口をきいてもしょせんはガキ――

「『掃除をしなくてすむ所』って、どういう意味ですか、リオマさん?」

 麒麟の像の隣に、壁にもたれるようにしてユーアが立っていた。革袋の紐に指をかけ、くるくると回しながら言う。

「……どうせ、こんなことだろうと思いました。逃げようったってそうはいきませんよ」 ユーアは、言葉に詰まる俺に雑巾を手渡した。

「ちゃんと掃除し直して下さいね、この麒麟」

 …………。

 何者だ、この娘。まるで何もかも、見透かされてるみたいじゃないか。

 いや、そんな事より――

(何故この俺、隗・サァト・リオマがこんな小娘の言いなりにならなきゃならないんだ) その疑問が脳裏をよぎると同時に、我知らず頭にカッと血が上った。

 パシィィン!

 考えるより早く手が出ていた。意外なところで、またぞろ過去に身に付いたものが生活をブチ壊しにする。

 無意識に手加減はしている筈だが、それでも立派に音はした。ユーアが頬を押さえる。

(……しまった……)

 彼女は口をきゅっと結び、うるませた瞳に、怒り、悔しさ、哀しみなどの感情を乗せてじっと俺の顔を見た。

 激情は尻尾を巻いて逃げ去り、後悔の高波が今にも俺を呑み込みそうな所まで迫ってきている。

「いや、その……これは……」

 最悪の事態だ。男として、これ以上に立つ瀬がない状況というものがあるならお目にかかりたい。

「……何やってるの、リー坊」

 背後で声がした。

 聞き覚えのある声だ。

 生まれた時から聞き慣れている声だ。

「事情は良くわかんないけど、女の子に手を上げるなんて……最低の男だね、あんたって子は」

 超最悪の事態だ。『これ以上に立つ瀬がない状況』の御登場である。どうしてこんな時だけ願いが叶いやがるんだ、畜生!

 振り向くことも、ユーアの顔を見ることも出来ず、俺は横を向いた。

 その俺の耳が後ろから掴まれる。



「痛っ、やめてくれよ、シャティ姉!」

 その女性、シャティはユーアに挨拶した。耳を引っ張ったまま。

「初めまして。通りすがりのリオマの姉です」

 よりによってこんな時に通りすがるな。

「さて、中でゆっくり話を聞かせてちょうだい、リオマ」

 ……厄日だ。……何故だ、厄年の前借りをした覚えはないぞ。



「……なるほどね」

 俺の正面、ユーアの隣に座ったシャティはそう言った。

 一通りの説明を終えた俺は、そっぽを向いたままだ。我ながら、悪戯が見つかって叱られている子供、という比喩が良く当てはまると思う。

「このお嬢ちゃん――ユーアちゃんだっけ?――については大体わかったわ。リオマにしては気の利いたことをしたじゃない。けど、それから後はいただけないわねぇ」

「あの、シャティさん。私のほうも悪かったんです。リオマさんの気持ちも考えないで……」

 ユーアが俺とシャティの顔を見比べるようにして言う。

「こんなバカの気持ちなんて考えるだけ無駄よ、ユーアちゃん。あなたは麒麟亭とリー坊のためを思ってしたんでしょう」

「……『リー坊』ってのもいいかげんにやめてくれよ。俺はもう二十七だ」

 ボソボソと不平を述べるが、そんなものに耳を貸すような人じゃない。

「嗚呼、これでようやく麒麟亭も昔みたいに綺麗になるのね……お父さん、お母さん、喜んで下さい……」

「わかった、わかったよっ!」

 俺は立ち上がり、ヤケになって叫ぶ。

「何もかも俺が悪いんだよ! 掃除でもなんでも手伝うから許してくれ!」

「……だそうよ。聞いたわね、ユーアちゃん?」

 ニヤリと笑うシャティ。そのまま隣のユーアの右腕を掴み、俺の前に差し出させる。

「?」

「とゆーことで……ハイ、仲直りの握手」

 子供じゃあるまいし。こういうところが一番苦手なんだ。

「さっさと掃除を済ませちまおうぜ。客が来るまでにある程度片付けなきゃ」

 シャティを無視して俺は背を向ける。後ろでシャティが言った。

「ごめんね。あいつ、女の子の扱いに慣れてないのよ。我慢したげてね」

「……手伝わないんなら、とっとと帰れ二児の母」





 久しぶりの運動は、思ったより体にこたえた。やっぱり歳だな、俺も。

 一ヵ月分はゆうに働いたような気がする。一階の不要物を上に運ぶ俺。テーブルを磨き上げるユーア。何もせずに俺に命令だけするシャティ。

 上に運ぶと言っても、二階にもろくにスペースが残っていないから始末が悪い。午後からは三人がかりで二階の整理をすることになった。

「ちょっとリオマさん、これいったいいつの空き瓶ですか! どうしてこんな所に転がってるんです!」

「リー坊、これ捨てちゃっていいの?」

 二箇所から代わるがわる声がかけられる。

 誤解のないよう言っておくが、散らかっているのは決して俺のせいばかりではない。二年前に、根性無しの倉庫がボヤで再起不能になってしまったのだ。おかげで祖父のコレクションを『疎開』させねばならなかった。絵やら、彫像やら、剣やら、異国の楽器やら、書物やら、挙げ句の果ては、何に使うのかさっぱり見当も付かない虹色の円盤の山や夜中に勝手に歩きだすクマのぬいぐるみ(これは本気で怖い)や……。

「リオマさん、この剣は? なんか大事そうに布にくるまれてたんですけど」

 ユーアに呼ばれ、俺はそちらに行く。

 大人の指先から肘までくらいの刃渡りを持つ小刀だ。

 ……この剣は……。

「貸しな、子供が触るもんじゃない」

 ユーアの手からそれを取り上げる俺。

「―こいつはな、人を斬ったことのある剣なんだ」

「冗談でしょ? 大切な物なら、素直にそう言ってくれれば……」

 ユーアは疑わしそうに、そして不満げに言った。単なる街酒場にそんな物があるわけがないと思うのは、確かに当然だ。が……。

「いや、本当だ」

 俺は元通り布を巻き付け、少し考えた末に木箱の奥にしまった。

「お二人さん、お紅茶淹れたから休憩にしたら?」

<あと十数えたくらいが飲み頃やで>

いつの間に下に降りたのか、シャティの声がした。

「……でも、今の剣」

 俺の後について階段に足をかけながらユーアが言う。

「新しさから見て、お祖父様の物じゃないでしょ……?」

 俺は、その問いには答えなかった。











 ま、そんなこんなでバタバタするうちに、あっさりと陽は沈みかけていた。

「けっこう時間が経っちゃったわね。ダンナと子供がお腹空かせて待ってるわ。じゃあリー坊、しっかりやんなよ」

<また来てや、アネさん>

 パタンと扉が閉まる。ユーアが椅子を並べていた手を止めた。

「素敵なひとですね」

「え? ああ、シャティのことか」

「あったかくて、しっかりしてて」

 そういうもんかねぇ。

「―似てないだろ、俺に」

「あ、いえ、そんな意味で言ったんじゃ……」

「本当の姉じゃないんだ」

 ポツリとそう言う。ユーアがハッとしたようにこちらを見る。

「あいつは捨て子でね。俺の両親が引き取って育てたんだ。そして、数年後に俺が生まれた。だから、俺にとっては生まれた時から姉だったわけで、血のつながりなんかどうでもいいんだけどな」

 記憶の一場面が甦ってきた。

「初めて知ったのは十四の時だったかな。シャティが自分で言ったんだ。『私はリオマの本当の姉じゃない』って。ポロポロ涙を流しながらさ――あのシャティが、泣くんだぜ」 あの時、俺は何と言っていいかわからなかった。しばらく後いつものように『姉ちゃん』と呼んだら、シャティは、とっくに背を追い抜いていた俺を抱きしめた。気恥ずかしい昔話だ。

「でも羨ましいな。私、ひとりっ子でしたから」

 いつの間にか、ユーアが俺のそばに立っていた。「それに、リオマさんがそういうこと話してくれたのも嬉しいです。私は自分のこと、何一つ話せないでいるのに……ずるいですね、私って」

 少し沈黙が続いた。

「悪かったな。その……殴ったこと」

 俺が思い出したように言うと、ユーアはクスッと笑った。

「いいですよ、気にしてませんから」

 やれやれ、許してもらえたようだ。

――などと安堵するほど俺の人生経験は浅くない。今の微笑は『これで貸し一つ』という意味に決まっている。

「兎に角そろそろ開店の時間だ。準備を始めなきゃ……」

 言ってるそばから、客が一人現れた。鍛冶屋のジュトウだ。

「どうした、今日はずいぶん早い御来店だな」

 俺は厨房へ向かいながら言った。ジュトウは意味ありげな含み笑いで答える。

「そりゃあ、なあ……」

 ユーアのほうに視線を注ぐのが、背中ごしにでも手を取るようにわかった。どこで情報を仕入れてくるんだ? まったく……。

 いや、愚問だった。おしゃべりな身内が一人いたっけ。

「いらっしゃいませ。新しく入った住み込み店員のユーアです」

「おい、俺はまだ正式に認めたわけじゃないからな!」

「……店員ということにしといたほうが、いいと思いますよ?」

 どやどやどや。

 数人、いや、十数人の足音がした。

 バタムッ!

 がやがやがや。

「よう、リオマ! 嫁さん貰ったって本当か!?」

「へー、確かにこりゃあ別嬪だ」

「勿体ないぞ、リオマになんか」

 ……こいつら……。

 俺はフライパンを打ち鳴らして怒鳴った。

「やかましい、こいつは単なるウェイトレスだ!」

 ユーアが『ほらね?』とでも言うように笑ってみせた。

――大したお嬢さんだよ、本当に。











 大したお嬢さんだよ、本当に。

 残念ながら、俺はユーアが優秀なウェイトレスであることを認めざるを得なかった。

 彼女がいるだけで、麒麟亭の空気が和らぎ、華やぐのが俺にも感じ取れた。無論まだ手際の悪さがあることは否めないが、笑顔一つでそんなものは吹き飛ばされてしまう。そんな働きぶりだった。

 という訳で、今日の麒麟亭は大盛況である。あーあ、店員一人でこんなに変わるなんて、これまで真面目に働いてたのが馬鹿みたいだ。

 いや、確かにあまり真面目には働いてなかったけどさ。

 最後の客を送り出し、洗い物を片づけながら俺はそんなことを考えていた。

<リオマ、私も洗っとくれ>

 サキョウは客がいる間は喋らない。その分を取り戻すように言う。

「また今度な」

<カビたらどうするんや>

「はいはい」

 サキョウと最後の皿を洗い終え、ユーアの姿を探す。さっきまでテーブルを拭いていたと思ったが。

――彼女はエプロンをしたまま、ソファで寝息をたてていた。

「無理もないか……」

 俺は苦笑する。このままここで寝かせようか、それとも二階に連れて行こうか。俺が近付いても目を覚ます気配はなかった。

 差しのべた指先が肩に触れた。ふと、ユーアの華奢な手が動き、俺の手に重ねられた。 しかし、起きたわけではなさそうだ。

 どんな夢を、見ているのだろうか。

 ユーアの掌の温もりが伝わってきた。

「お父様……」

――眠りの中で、彼女はそう呟いた。

 俺なんかの立ち入る隙もないくらい、深い愛情と、そして哀しみとを含んだ呟きだった。 俺なんかがこうしてのうのうと暮らしているのに、こんな若い娘が何か辛い出来事を抱えて生きているのだ。それも、こんな俺のもとで。

 俺はユーアの手をそっと払った。

 彼女の温もりが、今は痛すぎた。

  

Posted by 白川 嘘一郎 at 21:44Comments(0)

2010年09月27日

◆ 弐、 呑んで踊って一刻半



 それでもまた、朝は来る。全ての人々に平等に。当然のようにまた、夜になる。全ての場所で公平に。

 ユーアはいつものように明るかった。どんどん新しい仕事を覚え、麒麟亭に溶け込んでいく。怖いくらい順調だった。

 順調なまま数日が過ぎた。

「リオマさん。私、買い物に行ってきますね」

「ああ、頼む」

 ずいぶんと健康的な生活になった。売り上げだって以前と比べ物にならない。

 正直言って、悪くなかった。

 ユーアはいつまでここにいる気だろう。俺は何も聞かないし、相手も何も言わない。そんな状態が続いたままだ。ただ、俺にはあの晩の一言がまだこびりついている。

 呆っと時を過ごしていると、足元がかすかに揺れた。しばらく続いたそれは、やがて突然ピタリと止まる。

 驚くことはない。『時震』だ。

 霊峰カムイの神秘的な活動により、毎日決まった時間――正午――に小さな地震が起こる。我々の時計はこれを元に定められているのだ。

(ユーアが帰って来たら、昼飯にしよう)

 俺の思いを読み取ったかのように、扉が開いた。だが、入ってきたのはユーアではなかった。『三人組のガラの悪そうな男』を店員にした覚えはない。

「悪いな。今は営業時間外なんでね」

「こっちも悪いが、酒を呑みに来たんじゃない」

 三人はさりげなく俺を囲むように散らばり、正面の一人が出口を塞ぐように立った。

――この動きは素人じゃない。

 ギルドの者だろうか。どうしてまた、今頃……。

「何の用だ」

 俺は硬い声で尋ねる。

 忘れよう忘れようとしているうちに、平凡な暮らしに押し流されて、それほど大した事ではなかったんじゃないかと思い始めていた頃だった。だが、そう簡単にはいかないようだ。

 現実は甘くない。そしてそれ以上に厳しいのは、その事を知っている人間の抱く夢だ。

 訪れた事態を前にして、ようやく俺は自覚した。俺が望んでいたのは結局、『何事も起こらない日常』というごくささやかなものだったのだ。

 その気持ちとは裏腹に、いまだに手離すことが出来ないでいた“武器”。俺は密かに、それがいつでも使える状態にあることを確認した。

「……手荒な真似をする気なら、人を呼ぶぞ」

 できればもう、あんな技は使いたくない。

「なぁに。大人しく答えてくれれば何もしない」

「女を探しているんだ。若い女をよ」

「知ってんじゃねえのか? 酒場ってのは街の情報の宝庫だからな」

 三人は練習でもしていたかのように割り台詞で言った。

 こいつら、俺が目的じゃないのか。ということは……若い女……ユーアか?

「意に添えなくて残念だが、三つの理由でそれには答えられんな」

『三つの理由?』

 今度は三人が声を揃える。

「第一に、質問の意図がはっきりしない。単なるお遊びなら答える義理はないし、俺が迷惑をこうむるようなことを企まれていても困る。第二に、俺が知ってるだけでも若い女はごまんといる。そして最後に、人にものを頼む態度がなってない」

 俺の言葉に奴らはカチンと来たようだ。怒らせるような言い方をしたんだから当然だが。

「何だと」

「痛い目を見ないとわからないのか」

「馬鹿な奴だ」

 順番にそう言う三人組に、俺はこれ見よがしにため息をついた。

「どうしてそんな方向に論理が飛ぶんだ。『これこれこういう女をこれこれこういう理由で探している』、そう頭の一つも下げて言えば済むだろうが」

「たかが酒場の親父にそこまで言えるか」

「そんな口をきけるのも今のうちだぞ」

「腕の一本や二本、なくなっても恨むなよ」

 正面の男が剣を抜き払い、こちらに突進する。

 やれやれだ。

 それどころではないのはわかっていたが、俺は深い自己嫌悪を感じた。

 何だかんだ言いつつ、挑発したのは俺だ。こういう格下の馬鹿どもを見ると、抑えが聞かなくなる。

 俺はやはり、昔のままなのだ。あんな事があっても、変わってはいない。

 ただ、眠っていただけだ。

俺は懐に手をやり、“それ”を引き抜く。

 俺が腕を横に払うのとほぼ同時に、男が床に倒れる。彼には、赤い点が光ったようにしか見えなかった筈だ。

 残った二人は、仲間の喉から生えたそれ――俺が投げつけたもの――を見つめる。

「朱塗りの針……?」

「まさか……」

 しばしの空白。

“赤蠍”(スコーピオン)!?」

「悪魔の如き腕を持ちながら、四年前に突然ギルドを抜けた暗殺針(アサッシン)……」

 またしても沈黙。

 まさかお前ら……その台詞が抜けてる部分は倒れた男の分か……?

 それはさておき。

「……うんざりだ」

 静かに、はっきりと俺は呟く。

“赤蠍”。確かに、一時期そう呼ばれていたこともあった。

「陳腐な名前のセンスに馬鹿げた形容。格好のいい闇の集団でも気取ってるつもりか知らんが、しょせんはただの人殺し。クズはクズだ」

 吐き捨てるように俺は言った。

「馬鹿な……」

「何故『あの男』が、こんな街で田舎酒場の主人なんぞやってんだ!?」

 …………。

「悪かったな。田舎酒場で」

 俺は一歩前に進み出る。呼応して男たちが後ずさる。

「先輩として忠告しておこう。酒場に目を付けたのは良かったが、聞き込みってのはもっと目立たず紳士的にやるもんだ」

 俺は倒れた男に目をやった。殺してはいない。即効性の麻痺毒だ。

「こいつにも後で教えとけ。家具などがごろごろしている屋内では、長い剣を使うのは不利だとな。足下がおぼつかないから剣に振り回されやすい上、椅子やテーブルに刃が突き刺さって抜けなくなることもある」

「お前が悪いんだ、こんな所に入ろうなんて言うから!」

「何、言ったのはお前だろう!」

 …………。

「いや、確か言ったのはこいつだ」

「そうそう、そう言えばそうだった。全部こいつが悪いんだ!」

 …………。

 聞けよ、人の話を……。

「さて、貴様らがここを出る方法は三つある。第一、俺を倒す。第二、俺に殺られて死体となって出る。そして最後は、金を払って客になることだ」

「客に?」

「どういうこと……でしょうか?」

 慣れない敬語を使いだす男たち。

「金さえ払ってもらえれば、客は客だからな。お帰りになるまで丁重におもてなしするさ。……ちなみに、早く選択したほうがいいぞ。その倒れてる奴、命に別状はないが長時間放っておくと脳に障害が残る場合がある。さっさと治療師の所に連れて行くんだな」

 二人は慌ててポケットをひっくり返し、床にコインをぶちまける。

「……営業時間外だから特別料金だぞ」

 彼らはさらに慌てて、倒れた男のポケットも探った。

「で、御注文は?」

「いえ……」

「それは別の機会に……」

 男たちは仲間をかついで出ていった。

「――またの御来店を」

 俺は軽く頭を下げる。

 面を上げた時、扉が開け放たれたままの入口に、真昼の眩しい日光を背にして誰かが立っていた。

 ユーアだ。

 床に描かれた彼女の影は、微動だにしなかった。

「……今の話、本当なんですか。リオマさん」

 乾いた声だった。

「どこまで聞いた?」

「外で……全部……」

 逆光で表情が見えない。

――とうとう知られちまったか。意外に早かったが。

「本当、だよ。言い訳で慰めてやることは出来るが……残念ながら、真実だ」

 影が揺れて、動いた。こちらに駈け寄る。

「どうして……リオマさんが、暗殺針だなんて……」

「十七の時、グレて家を飛び出した。そんなガキが生きていくために出来ることなんて限られている。スリ、サギ、泥棒、その道に入るまで長くはかからなかった」

 俺は淡々と答えた。

「何年かして、殺しを覚えた。リスクも大きいが、一番見返りの多い仕事さ」

「お金のために、人を殺すんですか!」

「ああ」

 ユーアは、目に涙さえ溜めていた。

「それ以外に何がある? 正義か? そんなものは相対的な、自分勝手なものだ。人間に、正義の名目で殺されてもいい人間を決める権利はない。まして、自分が殺していい側に立ったと思い込んだ時、人は限りなく残虐になる。だが、金さえ貰えばそいつはあくまでビジネスだ。俺は金のために人を殺すし、相手は金の力によって殺されたことになる。それが嫌なら同じく金の力なりなんなりで身を守ればいい。それが世の中の法則だろ」

 そうだ。そんな詭弁まがいの論理にすがりつきでもしなきゃ、殺し屋なんぞやっていけない。

「だからと言って、命を奪うことは……」

「じゃあ聞くが、お前さんは誰かを殺したいほど憎んだことはないのか? 誰かがいなくなってしまえばいいと思ったことは?」

 ユーアの言葉が止まった。そのままうつむく。栗色の髪が寂しげに揺れた。

「なら同罪さ。……自分で実行出来ないお前らのために、自分の手を汚してやってんだ。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはない」

「でも……でも、なにもリオマさんが……」

「しつこいな」

 俺はそう言った。しょせん、いつかはこうなるのだ。

 ずっと暗い店内にいた俺に、扉から差し込む光が眩しい。――それと、同じだ。

「素性も本名も知らない小娘に理解して貰おうとは、小人(ノーム)の髭の先ほども思わない」

 決定打、だったろう。

 彼女はくるりと背を向けた。一歩、二歩と歩み去る。

「ユーア……」

 一度だけつい、彼女の名を呼んでみた。そしてすぐに後悔した。

 けれども彼女は振り返らなかった。三歩、四歩……。

「こうするのが当たり前ですよね。人殺しと一緒に暮らすなんて、出来るわけがないもの……」

 五歩。

「…………」

 扉の所まで辿りついた時、彼女が何か言った。

「え?」

「――(りん)・ラクステイア。私の本名です」

 扉が閉められ、差し込む光が途切れた。

「……すまない」

 その言葉は、彼女には届かなかっただろう。













(リオマ……)

 声が聞こえた。ユーア? いや違う。

(また、ギルドと関わりを持つの……また、手の届かない所へ行ってしまうの?)

 ここは夢の中らしい。

(また……殺すの?)

 これは夢だ。さもなければ彼女が――サユミが現れる筈がない。

(忘れないでね……約束を……)

「忘れてはいない。忘れてなんか……!」

 ふと、目が覚めた。翌朝だ。

 全身にかいた汗が、まるで血糊であるかのような錯覚にとらわれ、俺は手の甲で強く額をぬぐった。もちろん見慣れた赤い色彩はそこには無い。それでも、両手がべっとりと血に濡れているような気がした。

<リオマ、あれで良かったんか?>

 サキョウが喋る。

「仕方ないだろう」

<ギルドが狙ってんのは、あの子かも知れへんで。それを放り出して……>

 俺はソファから起き上がった。

「“赤蠍”の元にいるよりは、安全だ」

<お前やったら、あの子を守ってやれるんやないか>

「よしてくれ。俺の針はそんな格好いいことには使えない。ただの人殺しの技だ」

俺が暗殺針だったことを知っているのは、今やギルドの上層部とサキョウだけだ。『仕事』においても、一度たりとも顔を見せたことはない。数瞬後に死ぬ相手以外には。

 ……いや、たった一度だけ、姿を見られたことがあったか。あれはとある街の成り上がり貴族を暗殺した時の事だ。前日の夕方、屋敷に下見に忍び込んだ折、裏庭で小さな女の子が毒蛇に襲われそうになっている場面に出くわした。思わず助けてしまったが、人殺しのサソリが毒蛇を刺したのだからお笑いだ。今はもう昔の話だが。

 外の風にあたりたくて、俺は扉を開けた。

 またもやそこにそれはあった。ボロにくるまれた物体。

 カラスが一声短く鳴き、風が髪を揺らす。

――ユーアだ。





 例によってソファを占領した彼女から少し離れて、俺は安酒を傾けていた。湧いてくる疑問を流し去るように。

 何故またここへ戻ってくる? 何故……。

「リオマ……さん……」

 目覚めたのか、背後で衣ずれの音と共に声がした。

「どういうつもりだ。あんな所であてつけがましく寝たりして」

「少し、一人になりたかったんです。でも他に行く所もないし……」

 ユーアの足音が近づく。俺は顔も向けずに席を立ち、彼女から離れようとした。

「人殺しとは、一緒に暮らせないんだろ?」

 彼女は小走りで俺の前に回り込んだ。

 一瞬俺と視線を合わせ、目をそらす。

「意地悪しないで下さい……」

 語尾がかすれた。

「私には、ここしか居場所がないんです。――たとえ、リオマさんが何であっても」

 固く握りしめられた彼女の拳。

「……俺が暗殺針だったと知ってる人間は、ギルドの連中とお前だけだ」

 ユーアの身体がこわばるのがわかった。

 俺はカウンターの上に置かれていたナイフを手に取った。

「お前を、殺すかも知れないぜ……」

 ユーアに歩み寄るが、彼女は動かない。

 ナイフを、彼女に手渡した。

「晩までにジャガイモの皮をむいといてくれ」

 ユーアの肩から力が抜ける。

「はい……店長」











 それからまた何日か経った。客たちにとっては、麒麟亭が一日休んだだけのことで、いつもと変わらぬ毎日である。ギルドもあれから動きを見せていない。しかし、俺とユーアの関係は完全に今まで通りというわけにはいかなかった。

 それでも俺たちはお互いに、あの日の出来事を忘れたように接していた。

 冗談も交わせば、笑顔も見せる。そんな日々だった。

 どんどんどん!

 ドアが激しく叩かれる。営業の都合で、早めの夕食を二人で摂っていた時のことだ。

「大変だよ、リオマおじさん!」

 返事も待たずにそいつは転がりこんでくる。近所に住むライズというガキだ。

「マスカレードがいなくなっちゃったんだ! 見かけなかった!?」

 仮面舞踏会(マスカレード)というのは、昔ウチに捨てられていた犬である。白い小型犬だが目の回りの毛だけが黒いので、そう名付けられた。

 今はライズの家で飼われているが、こいつには突然ふらっといなくなる癖がある。こうしてライズが俺の平和な生活を乱しに来るのも、もう何度目かになっていた。

「ああ、あのバカ犬ならここに……」

 そう言って、スープ皿の中身を指し示す。

「え?」

「……脂ののりがイマイチだったな」

 沈黙。

「ああっ! マスカレードぉ!!」

「リオマさん! ふざけてる場合じゃないでしょ!」

 ……騒がしい奴らだ。頼むから静かにメシを食わせてくれ。

「ライズくん、その犬はいつからいなくなっちゃったの?」

 ユーアがお姉さんぶって尋ねる。

「さっきエサをあげようと思ったら、外れた鎖だけが転がってて……」

「そう……。わかったわ、私たちが探してあげるから、ライズくんはおうちで待ってて。ね?」

「コラ。私『たち』ってのは何だ」

 ユーアは俺を無視してライズを送り出した。

「さあ、リオマさん、行きましょう」

「……あのな」

 俺は食事を平らげながら言う。

「そんなことに構ってるヒマはない。俺たちには他にやらねばならないことがある筈だ」

「何ですか、『やらねばならないこと』って?」

 箸を置いて、俺は答えた。

「取り合えず……食事の後片付けとか」

 一瞬の空白。そして――

 パシィィィン!!





 かろうじて明るさを保っている外の通りを、俺は左頬を押さえながら歩いていた。

「俺を殴った女は、シャティの他ではお前が初めてだぞ……」

「光栄ですねー」

 隣のユーアは涼しい顔だ。

 さすがに少し肌寒い時期なので、俺の昔の上着を着ている。十三、四歳の頃の物だがそれでも彼女にはやや大きめだ。

「だいたい、いつもひょっこり帰ってくるのに、わざわざ街中探し回るつもりか……ックシュン!」

 大きくクシャミをした俺に、ユーアが心配そうに言った。

「大丈夫ですか? リオマさんも何か着てくれば良かったのに」

「準備する間もなく引っ張って来たのはどこのどいつだ」

 ユーアは心もち俺に寄り添うようにした。

「ごめんなさい。……でも、ライズくんがあんまり一生懸命だから、あの子もマスカレードも可哀相で……」

 彼女が俺の腕をそっと掴む。少し声が小さくなった。

「あの日、私も……本当はあなたに探して欲しかったのに」

 …………。

 俺が返すべき言葉を見つけられないままでいると、ユーアは不意にいつもの明るい調子に戻った。

「ところで、どうやって探したもんでしょうね」

「落とし穴でも仕掛けとくか? あいつなら引っ掛かるぜ」

「もう、真面目に考えて下さいよ。――だいたい、どうしてサキョウさんなんか持ってきてるんですか」

 俺の手からぶら下げられてるサキョウを見つめる。

「以前、マスカレードがあんまり言うことを聞かないんでな、例のコレクションの中にあった首輪を付けてやることにした。呪文を唱えると輪がきつく締まるという……」

「そのリオマさんの動物虐待と、この際何の関係が?」

<魔術によって造られた私は、同じ魔術の品を感知することが出来るんや>

「類は友を呼ぶって奴だな」

<そういう言い方はやめて欲しいねんけど>

「兎に角、あいつがその首輪を付けてる限り、何処にいようとわかるって寸法だ」

 まだあまり合点が行ってないようだが、取り合えずうなずくユーア。

<んーと、まずは……北にしばらく歩いて……>

 俺たちはそれに従い、通りを北へと足を運ぶ。すれ違う人々が妙な目で見た。確かにポットを抱えて歩く中年男の姿は、ごくありふれた光景とは言い難い。

 それを敏感に察したか、ユーアが数歩俺から離れて他人を装う。……ったく、この女は……。

「おい、まだか」

 小声でサキョウに話しかける。ユーアはまた一歩遠ざかった。

<そうやな、ほんならこの辺で南へ向かって……>

 北の次は南か……。

――南ぃ?

「てめェ、ふざけてんのかっ!」

 俺は思わず大声を上げる。周囲の視線が集中した。

<ちょっと運動不足を解消してやろうと思ただけやんか>

「……俺がお前から手を放したら、どうなるかわかってるか? 自分の位置エネルギーを認識しろよ」

<次の角を右に入り。多分その辺りにおる筈や>

 最初からそう言いやがれ。俺は幾つもの瞳の間をくぐり抜け、完全に離れた所で靴の汚れを払うふりをしていたユーアをひっ捕まえた。

「さあ、行くぞ!」

 ことさら大きな声でそう言ってやる。

「私、あなたなんか知りませんっ」

「やかましい、元はと言えばお前が……」

「ああ、見知らぬ変な人が私をっ」

 俺は無理やりユーアを引きずって角を曲がった。

 折も折、家々の間の路地から飛び出してきた白い影一つ。

「――見つけたぞ、バカ犬!」

 サキョウをユーアに投げ渡し、マスカレードに飛びかかる。しかし、動きだけはすばしっこいマスカレードはあっさり俺の足下をくぐって逃げた。

「くそっ」

 ちょこまかと走り回る犬公に、恥ずかしながら俺は翻弄されるばかりである。

――そうだ、例の首輪の呪文!

「えーと……」

 他人にくれてやった品の事を、いちいち律儀に覚えているような俺ではなかった。

 と、後ろから飛んできた女物の靴がマスカレードの後頭部を直撃する。

 地面にのびる白い犬。

「……手加減ねーな、お前」

「だ、だって、ホントに当たるなんて……」

 片足で立ったまま呆然と呟くユーア。

「そういう犬なんだよ、こいつは」

 二人で顔を見合わせていると、突然奴はむくりと起き上がって走りだした。

「しまった!?」

「芸の細かい犬……」

「……ああいう犬なんだ、あいつは」

 追おうとした俺の耳に、澄んだ声が聞こえた。

「おいで……そう、いい子だね……」

 暗くなった通りの向こうに、一人の少年がしゃがみこんでいた。マスカレードはしばし躊躇したあと、彼の腕に飛び込む。

 雲が途切れたか、赤く染まった光が少年を照らした。

 初めて会った時のユーアのように、ボロボロの服、汚れた顔。綺麗な瞳だけがやけに不釣り合いだ。

「こいつ、お兄ちゃんの犬?」

 マスカレードを抱いて少年は立ち上がった。

――それが、最初の出会いだった。











「僕の名前? ホタルって、呼ばれてるよ」

 少年は麒麟亭の中を物珍しそうに見回しながら答えた。

 マスカレードをライズの家に送り届ける時、後からこいつがついて来た。話を聞いてみると、こいつも行く所が無かったらしい。

 子供なので要領を得ない部分もあったが、ホタルは旅芸人の一座の一人で、仲間たちとはぐれてしまったということだ。十二、三歳、ってとこだろう。声変わりもまだしていない。ちゃんとした年齢は本人も知らないようだ。

「小さい頃、捨てられてたのを座長が見つけたんだって。だから本名もわかんない」

 ホタルはさらりとそう言ってのけた。

「じゃあ、その一座の連中が心配してるんじゃないのか?」

 首を振るホタル。

「ううん。僕は食べさせてもらう分働いてただけだもん。いなくなっても困んないと思うよ。正直言ってそのうち逃げだそうかと思ってたし」

「……わかるわ。そういう人たちって、小さい子に無理に厳しく芸を仕込んだりするんでしょ?」

 俺は、ホタルに優しく話しかけるユーアを壁際まで引っ張っていった。

「おい、まさかとは思うが……」

 小声で囁く。

「はい。しばらく泊めてあげて下さい、リオマさん」

 予想通りの言葉に、肩にどっと重いものがのしかかるのを感じた。

「これ以上、居候が増えてたまるかよ……」

「私はちゃんと働いてるじゃないですか。なんならあの子の分も、私のお給金から引いてもらって結構ですから」

「だからー、そういう問題じゃ……」

 俺はちらりとホタルの方に目をやる。ユーアが悪戯っぽく言った。

「それとも、私と二人っきりじゃなくなるのが嫌?」

「正気か、お前」

「じゃあ別に不都合は無いでしょ」

 はぁ、いつから難民収容所になったんだ、ここは。――ともあれ、もう開店の時間だ。

「今晩のところは、その議題は保留だな。おいホタル」

「なーに? お店始めるの?」

「ああ。だからそんな格好でウロウロされると困る。ユーア、湯に入れてやってくれ」

 ユーアが戸惑った表情の自分の顔を指さし、言う。

「私が? 一緒に……入るんですか?」

「ついていてやるだけでも構わないけどな。恥ずかしがる相手でもないだろ、ガキなんだ  し」

「いいよっ、一人で入れるから!」

 何故かホタルも強い調子で言った。

「どうでもいいから早くしろ。客どもが来るぞ」

 そう言い残し、俺はテーブルの上に出しっぱなしだった食器を片付けにかかった。

 ユーアはホタルに浴室の説明をしてやっていたようだが、やがてドアを閉めて一人で出てきた。

 少しして、中から水音が聞こえだす。

「リオマさん、あの子の着替えどうしましょう」

「俺の古着でいいだろ。俺はもう何も言わん。好きにしな」

 こないだ二階を整理した時に出てきた服だ。幾らかはシャティんところへやっちまったが、まだ少しは残っている。さっきまでユーアが着ていた上着もそうだ。

「じゃあ、取ってきますね」

 彼女は階段を昇っていき、しばらく俺の洗い物と風呂場、二種類の水の流れだけが麒麟亭に音を提供していた。

ちなみに、台所に置いてあるのは『水が絶えず流れる小型の小便小僧』である。こんな物ばかり何処からともなく集めてくる祖父と、こんな所に備えつけて食器洗いに使わせる父もさることながら、造った人間の顔を是非とも見てみたい一品だ。

 服を抱えて降りてきたユーア、ノックをしてから浴室の扉を開ける。

「入るわよ、ホタルくん」

 再び扉を閉める。

 水音が途切れた。

 ユーアのかすかな驚きの声が聞こえたような気がした。――そんなに免疫がないのか?意外とお嬢様育ちなのかねえ、あれで。

 中から何やらボソボソと話す声が聞こえてきた。内容までは聞き取れない。そのうち静かになり、二人が揃って出てきた。湯気がこちらの部屋にまで流れだす。

「へぇ……」

 綺麗になったホタルの姿に、俺は思わず声を漏らす。汚れを落としてみると、幼いなが  らかなり整った顔だちだ。愛らしさに加え、なにかしら気品のようなものさえ感じられる。

―だが、ここで余計な情を抱いてしまってはいけないのだ。

「よし、じゃあお前は上にでも行ってろ。邪魔だからな」

「えー! やだ、僕お兄ちゃんたちの仕事見たい。それに僕だってお手伝い出来るよ」

 ユーアと似たようなことを言うが……歳が違うぞ。ガキに出来るような仕事なら、ユーア一人に任せて酒でも呑んでるぜ。

 ホタルは救いを求めるようにユーアの顔を見た。

「大丈夫よ、ホタルくん。リオマさんは口は悪いけどいい人だし、それにもうすぐお客さんが押しかけて来て、それどころじゃなくなるから」

 まさしくその通りだった。

「さあ、酒だ酒だ!」

「やっぱりこの店に来ないと一日が終わらないよな」

「リオマ、いつものヤツを頼む」

 常連客が例によって騒ぎながら入って来、どかっと席に腰を下ろす。俺は仕方なく厨房に向かう。

「お?」

 彼らはここに至ってようやくホタルの存在に気付いたようだ。

「おい……リオマ……」

「何だ」

 俺は包丁を手に取りながら答えた。

「お前、ユーアちゃんだけかと思ったら、隠し子まで……うぉッ!?」

 ガシュッ!

 俺が投げた包丁が、連中のテーブルの真ん中に突き立った。

「そいつは只の居候その二だ。今度言ったらテーブルじゃ済まんぞ」

「あーあ、また疵が付いちゃった」

 嘆息するユーアを無視し、別の包丁で材料を刻み始める。

 どんどん客は増えていく。ユーアが彼らの間をせわしなく動き回り、注文を俺に伝える。

 目の前に人影が立ったような気がした。俺はコトコトと煮える鍋から目を離さずに言った。

「そいつを端のテーブルに運んでくれ」

 人影はカウンターの上の、サラダとスープの乗ったトレイを持って視界から消えた。

 おや?

 てっきりユーアだと思ったが、それにしては背が低かったような……。

 顔を上げる。

 自分の体に比べて大きすぎるトレイを危なっかしく支え、慎重に歩いていくホタルの姿。

「! おい待てホタル、お前に言ったんじゃ……」

 俺の言葉に少年は振り向こうとして、そして――。

 案の定バランスを崩した。時間が止まったような一瞬の後。

 派手な音が響き、野菜や汁が飛び散った。

「ホタル……」

 全身から殺気を発して、俺は冷淡に言った。

「そうやって人の料理を床にぶちまけるのが手伝いだと思ってんなら、そんな考えは即刻捨てるこった……」

 無言でうつむくホタル。

「リオマさん、あんまりです。誰にだって失敗はあるじゃないですか」

最初(ハナ)っからやんなきゃ失敗なんざしねェんだよ!」

「何もあんな言い方しなくたって」

 ユーアに加勢するかのように、鍛冶屋のジュトウが横から口を挟む。

「そうそう。息子にはもっと優しくしてあげなきゃね、パパ♥ ……むぐッ!?」

 グシャッ!

 俺が投げたトマトが、奴の顔の真ん中に命中した。

「そいつは特別サービスだ。受け取りな、ジュトウ」

「あーあ、また汚れちゃった。誰が拭くと思ってるのかしら」

 嘆息するユーアを無視し、俺はホタルに近付いた。

「いいか、ホタル。俺は怒ってるわけじゃないんだ。自分には無理だってことがわかっただろう? ……さあ、ここは俺が片付けるから上に行ってろ。自分の役割ってもんを、も っと良く考えるんだな」

 ホタルはうなだれたままソファの上の自分の荷物を背負い、とぼとぼと階段を昇っていった。

 雑巾で料理の残骸を処理し、俺はまた仕事に戻る。

 どのくらいの時間が経ったろうか。

「リオマお兄ちゃん、ちょっと来て!」

 上からホタルの呼び声がした。何だ、いったい?

「ユーア、ちょっとここを頼む」

 そう言い残し、二階に行く。ホタルは何処だろう。

「こっちこっち」

 シャティの部屋――今はユーアの部屋だが――から声が聞こえる。

「おい、あんなのでもいちおうレディだ。勝手に入ると怒られ……」

 ドアを開けた俺は、ポカンと口も開けた。

 鏡の前に立っていたのは、可憐なドレスをまとった美しい少女。

 俺が唖然としていると、そいつは腰まである綺麗な髪を、そっくりそのまま持ち上げてみせた。カツラだ。

「ほ、ホタル!?」

「僕の商売道具だよ。――自分に出来ることを考えてみたんだ。伊達に芸人やってたわけじゃないからねー。僕の踊り、そこそこ評判良かったんだよ」

 なるほど。女装させて芸をやらせてたわけか。子供よりはウケがいいもんな。

 俺は改めてホタルの顔を見た。薄い化粧のおかげで、実際よりもかなり年上に見える。

化ける(よそお)い、とは良く言ったものだ。

「踊らせてくれるよね、ここで?」

「あ、ああ。別に構わんが」

「ありがとう!」

 ホタルはニッコリ微笑んだ。軽く紅をひいた唇が妙に艶めかしい。

――いかんいかん、何を考えてんだ俺は。

 と、廊下のほうで足音が聞こえた。

「リオマさん、何かあったん……え!?」

 部屋を覗き込んだ途端、俺と同様の反応を示すユーア。

「ど、どなたです、その人? ひょっとして『居候その三』とか……」

「『その二』だよ。ホタルだ」

 ホタルはユーアに向かって片目をつぶってみせる。

「ええー!?」

 立ち尽くしているユーアは面倒だから放っといて、俺はホタルと話を進めることにした。

「そうだ。リオマお兄ちゃん、これ弾ける? さっき向こうの部屋で見つけたんだけど」 ベッドの上に置かれた琴を指さすホタル。

「いや、それは俺のもんじゃねェからな」

「なーんだ。音楽がないと踊りにくいんだけどな」

「あ……私、少し弾けますけど……」

 何とか状況を理解し、ユーアが言う。

「ホント? じゃあお願い、お姉ちゃん」

 ホタルは琴を渡した。

 店員不在の階下が騒がしくなってきたようなので、俺は階段を降りる。琴を抱えたユーアと、歩き方まで女らしくなっているホタルが続いた。

「何やってたんだリオマ?」

「ユーアちゃーん、水を一杯ちょうだい」

 つくづく五月蠅い奴らだ。

「おい、ちょっと静かにしてくれ!」

 皆が一斉にこちらを見る。

 そう言えば、芸人を呼んで踊りを披露するなど、麒麟亭ではついぞしたことがない。

 ユーアが手近な椅子に腰掛け、試しに曲の一節を爪弾いた。ステージなどという高級な物は無いので客たちの中央に立ったホタルは、目を閉じてそのメロディとリズムを確かめ、やがて小さく頷く。

「さて――ショー・タイムの始まりだ」

 俺の台詞を合図に、軽やかに舞い始めるホタル。

 上品なドレスの薄布がランプの明かりに淡く輝く。金の首飾りが時折光を照り返す。

 メロディに合わせ、ある時は優美に、ある時は力強く、小さな身体が躍動する。

 繊細に、艶やかに。気高く、まばゆく。全身で虚空に美を刻む。

 その場にいる者全てが、この幼い舞姫に目を、そして心を奪われていた。

 流れる音色もまた、素晴らしかった。ユーアのしなやかな指先から生み出される旋律は、ホタルの舞と見事に調和し、辺りを包んだ。

(こいつら……)

 とんでもない奴らだ。こういうことには疎い俺でも、凡人の域を遙かに超えているのがわかる。

いちおう玄人のホタルはともかくとして、問題はユーア。生活に追われる庶民が身に付け得る技術ではない。いったい、何者なんだ?

 夢のような時が過ぎ、余韻を残して最後の音が途切れた。ホタルが動きを止め、深々と一礼する。彼女の、もとい彼の波うつ髪が静かにおさまると、思い出したように大喝采が巻き起こった。

 こりゃあ、麒麟亭に置いてやらざるを得なくなったかもな。何よりこの客連中が許さないだろう。ホタルに逃げられた一座には気の毒だが。こいつみたいなガキの十人や二十人分は軽く食わせていける芸だ。それだけの価値はある。

 ホタルはもう一度お辞儀をし、今度は誇らしげに階段を昇っていった。

「おい、リオマ。ありゃあ何処の踊り子だ……?」

 感極まった様子で客の一人が問う。流石にあのガキと同一人物だとは考えつかないのだろう。

「そんなことより、そろそろ看板だぜ」

「しかしなあ……」

 ジュトウが呟く。

「リオマよ、どうしてこう次々と女を捕まえてくるん……でぇッ!?」

 グサッ!

 俺が投げたフォークが、ジュトウの鼻先をかすめて柱に突き刺さった。

「ちっ。外したか」

「あーあ、また食器の寿命が減っちゃった。結構、高いのに」

 嘆息するユーアを無視して、俺はフォークを抜きに行く。無論、外したのはわざとだ。「しかし毎度ながら、リオマの“投げ”も凄ェよな。何処で訓練したんだ?」

 ジュトウの向かいに座っていた男が言った。

「案外あれだな、実は――暗殺針だったりして」

「ははは、そりゃいいや。世界一怠け者で、皿洗いの似合う殺し屋だな」

「おいおい。あまり軽はずみなことを言ってると、『始末』されるぞ」

 酔っぱらいたちは大声で笑い合う。

 だが、いくら図太い俺でも今の言葉には思わず冷や汗が出た。ユーアも複雑な笑みを浮かべている。折角のいい気分がぶち壊しだが、怒るわけにもいかない。

――まったく、何も知らない奴は幸せだ。





 ふくろうが鳴き、麒麟亭の中の人間はまた三人に戻った。

「どうだった、ホタルの様子は?」

 降りてきたユーアに声をかける。

「すぐに寝ちゃいました。――けどホントに、踊ってる時とは別人ですね。こうして見ると」

 先日もう一度大掃除を実行し、俺の部屋とベッドは使用可能な状態に復活していたのだが、そういうわけで俺はソファに逆戻り。

「追い出したりしないですよね、ホタルくんを?」

「俺だって鬼じゃない。意地悪したいとか面倒くさいとかいう理由で反対してるわけじゃないんだ」

 ホタルの青みがかった瞳を思い浮かべる。

「お前だって気付いてるだろう。あいつは、異国人の血が混ざってる」

 この国では、異国人と婚姻しその優れた所を取り入れることは、王族や上流貴族だけに許された特権なのだ。

 そういった連中は自分たちを『混血種』と呼び、俺たち平民を『単血種』とさげすんでいる。もっとも平民にだって、自分たちこそ正しい血統を守り続けてきた『純血種』だと主張する輩もいるから、どっちもどっちだけどな。

「それがどうかしたんですか?」

 まだピンと来ないらしい。本当に、この娘は所々常識が抜け落ちている。

「だからだな……」

 血統に関する規制は厳しい。ミラ国とこのセイグル王国が併合されてずいぶんになるが、そのミラ人と純粋セイグル人の間でさえ、結婚は禁じられているくらいなのだ。

 禁を犯せば―死。異国の血をひく子供も同じである。

 ホタルは旅芸人たちが異国で興行していた時にでも拾われてきたのだろう。だとしたら純粋な異国人という可能性もあるが……。

「異国系の人間をかくまっているという噂が流れてみろ。すぐに役人が飛んで来るぜ」

「ちゃんと事情を話せばわかってもらえるんじゃないですか?」

「俺は兎に角、お役人どもには関わりたくないんだ。あんな、実は偉くもなんともない王族に媚びへつらってるような連中にはな」

 ユーアはしばらく黙り込んだ。

「大体、俺はお前にだって出て行って欲しいと思ってるんだ。――そのほうがお前のためだ、という意味でな。自分が狙われてるかも知れないと、わかってるんだろ?」

「え? そうなんですか?」

 …………。

「あのな。素性は聞かないとは言ったが――どう考えてもわけありな行き倒れ娘、ギルドが探してるのは若い女、これで何も気付かないほど間抜けだと思ってるのか」

「そんなこと言われても……私、狙われる心当たりなんてありませんし。絶対別の人ですよ、ギルドが追ってるのは」

 妙にきっぱり断言しやがるな。

「元暗殺針の俺だ。何かとギルドにチェックされる恐れもある」

 そう、いくら今は平和に暮らしていようと、俺の過去は消えない。人殺しの烙印はいつまでもついて回るのだ。

「ましてやホタルのことで騒ぎを起こすわけにはいかん。それに……」

「それに?」

「仮にお前がギルドとは無関係だったとしても、俺のせいで危険な目に会うかも知れない。出来ればその……お前を、巻き込みたくないんだ」

 らしくないな、と自分で思った。ホタルの舞を見た影響だろうか。

 ユーアは俺の瞳を見て、静かに微笑んだ。

「――手遅れですよ、今さら」





 彼女が寝に上がり、明かりを消してからも俺は眠れなかった。

 いくら振り払っても、嫌な記憶が湧いてくる。ユーアとの会話のせいだ。ユーアの笑顔は、あいつに――サユミに似ている。見る者を力づけるようでありながら、自らは切なさを抱いた微笑み。

 十年前。勿論俺は十七だった。その年代の若者にありがちな、自分への不信感と将来への不安感を抱え、俺は家出同然に旅に出た。

 金に余裕はさっぱりなかった。とある村で、ユーアのように行き倒れた。そんな俺を助けた一家がいた。

 農場主の父親、気立てのいいその妻、そして一人娘のサユミ。

 俺はそこで働くことになった。哲学的な悩みなんぞは何処かに吹き飛んでしまった。そこにはサユミがいたからだ。彼女の笑顔に縛られるなら、それはそれで良かった。

 ありがちな話だ。だが、サユミと結ばれ農場を継ぎ幸福な一生を送る――現実はそこまでありがちな物語を俺に与えなかった。

 サユミの父は先祖代々セイグルの民。そして、母は――ミラ人の血を引いていた。

 ある日。

 田畑を踏み荒らし、奴らはやって来た。

「三人まとめて捕まえろ。抵抗すれば殺しても構わん」

髭を生やした神経質そうなその役人は、甲高い声でサムライたちに命じた。

 奴の顔は、今でも忘れはしない。物陰で震えるサユミを抱きしめながら、俺はそののっぺりした顔を目に焼き付けた。

(リオマ君、サユミを連れて逃げてくれ……)

 奴らが来るとわかった時、サユミの父はそう頼んだ。その言葉通り、俺たちは奴らの隙を見てその場から逃げ出した。

 背後で悲鳴が聞こえる。足は鉛のように重く、走れども走れども前に進まないように感じ、そのくせ耳元を切る風はやけに痛い。

「見つけ出して娘()殺せ! 殺せ!」

 苛立って叫ぶ声。平和だった家庭を蹂躪する靴音。握ったサユミの手の、氷のような冷たさ。照りつける太陽。ぼやけた視界。そして、奴の顔。

 麒麟亭のソファの上の俺に、それらが一度にのしかかった。

――二人は小さな街で、新しい生活を始めた。再び、それなりにありがちな不幸話。雨の中で寄り添うように生きる、二匹の捨て猫のような……。

 幸いサユミは父親似だった。しばらく素性がバレる心配はなかった。

「俺は奴を許さない。決して生かしておくものか! 何が混血種だ、こんなバカげたことを定めた王族もろとも、皆殺しにしてやる!」

 俺は口癖のようにそう言っていた。サユミはただ、哀しそうに俺を見るだけだった。

(それから数年間。そのために、俺は敢えて血塗られた道を歩んだ。それだけの力を得るために。その機会を得るために)

“赤蠍”。それは俺の復讐の仮面だった。

 その役人はもうこの世にいない。

 俺が殺した。

 とある依頼の対象が奴だとわかった時の俺の喜びは、とても言葉では言い表せない。

 確か、名はレマルク。姓は……忘れてしまった。名前などどうでも良かった。

 奴はすっかり成り上がり、貴族階級の一員となっていた。そうあの、少女を助けた日の話だ。

 仕事に私情を交えたのは、あれが最初で最後だろう。

 そして、俺の怒りが王族そのものに刃を向けようとしていた頃……俺は、サユミを失った。

 四年前のことだ。

 残されたものは、目的を見失った復讐心と人殺しの肩書。

 俺は故郷に帰った。姉はすでに嫁ぎ、病に臥していた父は安心したかのように数カ月後に死んだ。

 俺は、麒麟亭を継いだ。平凡な暮らしがいつか俺を安らかな眠りにつかせ、その中で見る夢こそが現実だと思える日が来ると信じて。



 心の奥底に封じ込めていた記憶。

 やはり今夜は眠れそうにない。



  

Posted by 白川 嘘一郎 at 21:47Comments(0)

2010年09月27日

◇ 参、 御予約承ります



「ホントに大丈夫ですか? ゆうべ、寝てないんでしょう」

 隣を歩くユーアが話しかけた。夜が明けて陽が昇り、俺はユーアと一緒に街を歩いていた。

 買い物など別に俺だけで事足りるのだが……。どうも俺は一人になるとシリアスで暗ぁい思考に走る傾向にある。こうやってユーアと他愛もない会話でもしているほうが、精神的にもいい。そう思って彼女を連れ出したのだ。彼女は黙ってついて来た。ホタルは麒麟亭で留守番している。

 ホタルと言えば、朝飯の時に妙な事を口にしていた。

「これ全部、僕一人で食べていいの?」

 目の前に並べられた皿を見ての台詞である。断っておくがそんな豪華なものではない。いたって庶民的な食事だった。

 いったいどういう扱いを受けてきたんだ? 俺はそう尋ねた。

「別に食事の質は悪くなかったけど、量がさ……。ひもじい思いをさせられたわけじゃないけどぉ、やっぱりスタイルで人々に与える印象って変わるから、体型には気を遣わされるんだよね」

 それが芸人の生き方なのだろう。俺は勝手にそう納得した。

 たとえ十代の子供にだって、それぞれの人生があるものだ。そう、ユーアにも……。

 俺はちらりと横を見た。ユーアはそこにいない。彼女はやや後方を、早足で追ってきていた。

「あ……」

 俺は気付いた。ついつい、いつもの自分のペースで歩いていたのだ。

「――悪い」

 ユーアに合わせるため、俺は道の真ん中で立ち止まった。

 追いついたユーアは、少し息を切らしながら不思議そうに俺を見る。

「え? 何が悪いんですか?」

「そうやって、いちいち俺のわがままに付き合うことはないんだぞ」

「なんですか、突然……」

 ユーアはいつもの、わずかな寂しさを伴った笑顔を見せた。

「私は、自分の好きなようにやってるだけですから」

 …………。

 その言葉と笑みに、何かが融かされていくように感じた。

 認めざるを得ない。

 俺が見たがっていた平穏な夢をブチ壊しにして、唐突に転がり込んできた娘。俺に、痛い事実を突きつけた娘。けれども、これで良かったのかも知れない。

 恋だとか愛だとかいった感情とはもちろん別物だ。俺にそんなものを抱く資格はない。

 ただ、俺の過去を知りつつ、それでもなお側にいてくれる人間――。

 悪くないのかも、知れない。

「ユーア」

 短く彼女の名を呼び、彼女の細い肩に手を延ばしかけて、やめる。

「どうしたんですか? リオマさん」

「いや、なんでもない」

「……ヘンな人」

 俺は何も答えずまた歩き出した。

 沈黙を保ったまま、二人は並んで歩いていた。

――と、何やら行く手が騒がしくなった。目の前に人だかりが出来つつある。騒動の舞台は、ラディッシュ亭。十年ほど前に建てられたこの街唯一の宿屋だ。

 宿屋で起こりそうなトラブルと言えば……宿賃を踏み倒した、朝になったら客が死んでいた、荷物が盗まれた、客同士が喧嘩した、あるいは、満員でもう客を泊められなくなっ た……。

 嫌な予感がした。

「お願いです、お金なら幾らでもお支払いします! 泊めて下さい!」

 歳の頃、四十ほどの男が、地面に額をこすりつけて懇願していた。どうやら予感が的中したようだ。

「ちょ、ちょっと、そんなことされても駄目なものは駄目なんだよ」

 宿の主人も困った顔をしている。

「妻が身重なんです! 野宿しろとでも言うのですか!」

「だからね、泊めてあげたいのはやまやまなんだけどさ……」

 男の近くに彼よりも少し若い、お腹の大きな女性が立っているのに気付いた。彼の妻だ ろう。その女性は何故か目を閉じたままで、心配そうに二人のやりとりを聞いていた。

「お願いします!」

「しつこいね、あんたも……いいかげんにしてくれないと、しまいに怒るよ」

 早くも気の短さを顔に表しながら主人が言う。俺はユーアの顔を覗き見た。

――予想どおりだ。気の毒でたまらない、といった様子で男に視線を注いでいる。また『病気』が始まったようだ。次の台詞は想像がつくぞ。賭けてもいい。

「リオマさん、あの人……」

 ほら来た。

「絶対に駄目だ」

 ユーアの先を制して言う。

「可哀相じゃないですか。麒麟亭で泊めてあげ――」

「たりは絶対にせんぞ」

 言葉を途中で遮る。いくら可哀相でも、次から次へと厄介事を背負い込む羽目になった酒場の主人よりはマシだろう。

「リオマさんってば」

「さあ、さっさと買い物を済ませて帰ろう。そうだ、昼飯は何にしようかな」

 俺は人垣をかきわけ、先を急ごうとする。ユーアが服の裾を掴む。

「お前なぁ」

 振り返った俺の耳に、男と宿屋の主人とのやりとりの続きが聞こえてきた。

「せめて、せめて妻だけでも……」



「ウチは今、お沙邑尉(さむらい)様の御予約で一杯なんだよっ! よそをあたっとくれ!」

――沙邑尉(さむらい)だと?

 俺は静かに言った。

「ユーア……気が変わった……」

「え?」

「そういう事情なら話は別だ。何十人連れだろうと泊めてやる」

 沙邑尉(さむらい)どもに苦しめられている人間を見捨てては行けない。俺はその男の前に進み出た。

「おい、あんた。良ければ俺のところに来ないか」

 男の顔がパッと輝く。

「――ほ、本当ですか!? かたじけない!」

「俺の家は麒麟亭っていう酒場だ。あんたらぐらいなら泊める余裕はある。すでに二人、先客もいるしな」

「ありがとうございます……ヴィネ、良かったなぁ」

 ヴィネと呼ばれた彼の妻は、やはり目を閉じたまま頭を下げる。その動作を見て、ようやく俺は思い当たった。

 この女性は、盲目なのだ。

「リオマか。助かるよ」

 主人が言う。厭味の一つも返してやろうかと考えたが、思いとどまった。こいつに罪は

無い。沙邑尉(さむらい)の予約を断ったりすれば、後でどうなるかわからないからだ。

 ユーアが近付き、男を立たせてやる。ちらりと妙な表情で俺を見た。

 絶対ヘンだわ。悪いものでも食べたのかしら。

 そんなことを考えてるに違いない。





「姓は(ぼく)、名はトイロゥと申します」

 麒麟亭に落ち着くと、男はそう名乗った。

「号を春雪と申しまして……まあ、絵でなんとか生計を立てております者です」

「シュンセツ!?」

 ユーアが驚きの声を上げる。

「あの『バンライ三景』や『ディヴィナ卿の肖像』なんかを描かれた、あの、シュンセツさん!?」

「有名なのか、このおっさん?」

 あいにく絵には興味は無い。貧乏人には関係のない世界だ。

「有名も何も……百年に一人と言われる天才画家ですよ」

 シュンセツはそれを聞いて、照れたように笑った。

「いや、それは噂の尾ヒレというやつで。せいぜい百日に一人の才がいいとこでしょうなぁ」

「そんな、ご謙遜を」

 ユーアは懐かしそうに言う。

「私の住んでいた家にも、シュンセツさんの絵がありました。子供心にも素敵な絵だなと思って、良く眺めてたのを憶えてます……」

 何気ないふりをしつつ、ユーアの言葉尻を冷静にチェックしてみる。やはり彼女は、そこそこ金のある家の生まれのようだ。

 シュンセツは、妻の手を取った。

「そうそう。お気付きでしょうが、妻は昔、目の病を患いまして……おまけに今は普通の身でもなく、何かとご面倒をおかけすると思いますが」

 シュンセツはヴィネの腕を右に引いた。彼女は俺に向かって頭を下げる。

「よろしくお願いします……」

 俺がどの辺に立っているかを、合図したのだ。ごく自然な手慣れた動作だった。これが、夫婦の絆とでも呼ぶべきものなのだろうか。

 シュンセツは事情を俺たちに話す。

 結婚してずいぶんになるが、二人には子供がなかった。半ばあきらめていたのだが、それが今年、ようやくヴィネが身ごもったのである。

 ここでしばらく、シュンセツはその喜びをえんえんと語り続けた。流石にヴィネが制止する頃には俺は半分眠っていた。

 ともかく、住んでいた都からかなり離れたヴィネの実家で出産しようという話になったらしい。ところが馬車の切符がうまく取れず、予定以上の長旅になってしまったそうだ。この先生、なかなかの粗忽者である。

「で、見たとこ、臨月も近いんじゃないか?」

「はい。前の街のお医者様の話では、もう今週にも……」

 ……無茶苦茶しやがるな。旅なんぞ中止すりゃいいのに。

「いや、それがここだけの話ですが」

 その疑問に、シュンセツは俺の耳に口を近付けて答えた。

「実家にいる彼女の母親というのが、これまた凄まじくおっかない人でして」

 俺は思わず腹を抱えて笑った。しかしまあ、納得はいく理由だ。

「――初孫の顔を見るまでに自分が死ぬようなことがあったら、私にとり憑いて祟ってやる、なんて言うんですよ」

 横で聞いていたヴィネも苦笑いを浮かべる。

「ここまで来て引き返すよりは、一日も早く向こうに着こうと思ったんです。が、確かにこれ以上は無理をさせられませんな」

 シュンセツは妻の髪を愛おしそうに撫でた。

「おばさん、赤ちゃん産まれるの?」

 ホタルが目を輝かせて尋ねる。

「ええ、そうよ。“お嬢ちゃんみたいに”元気な子だといいんだけど」

 一瞬その場の全員が戸惑い、そしてその言葉の意味に気付いた。

「僕……男の子だよ」

「あら、ごめんなさい! 声や雰囲気でつい女の子だと思っちゃったわ」

 ホタルは子供ながらに複雑な顔をしていた。無理もない。

「ところで、この街でも何かが起こっているようですね」

 ポツリとシュンセツが言った。

「何か、とは?」

「宿屋を埋め尽くすほどの沙邑尉(さむらい)がこんな街に集まって来ている。王と国に仕える彼らが……。馬車が出なくなったのも、その辺に関係するのかも知れません」

 言われてみればその通りである。そして――。

 ギルドも、動いている。

「『この街でも』ってことは、他の所でも?」

「ええ。表立った騒ぎはありませんが、前の街でもやはり町中で沙邑尉(さむらい)を見かけたり……ここ近日、どうも妙です」

 ここ近日。確かに麒麟亭でも色々なことがあった。ユーアが来て、ホタルが来て、そして今度はこの画家先生だ。

「一つ、心当たりと言えば――もうすぐ、第十八代王女妃殿下が成人なされるんですよね。ひょっとしたら、その関係で」

「……王女か」

 王族は十五で成人と見なされる。そしてそれまでは民衆の前に出てくることはなく、王宮の中でひっそりと育てられるのだ。大切な世継ぎたちを守るためと、ある程度の威厳と風格が備わって初めて外に出すことで王族の権威を高める意図からである。

 また、王族は名前を持たない。固有名詞など必要のない、絶対的な一族なのだ。王族たちはただ単に『国王』『王子』などとだけ呼ばれる。第十八代王女とは、王国が誕生してから十八人目の王女という意味である。いずれ女王と呼ばれるようになる可能性もあるが。「王女様には数年前、国王陛下の御肖像をお描き差し上げるために王宮に参じた際、拝見申し上げましたが……それは愛らしくお優しいお方でした」

 シュンセツは敬意を込めてそう言ったが、俺は素直に受け入れることは出来なかった。昔の如く激しい感情は抱いていないけれど、王族を憎んでいることに変わりは無い。

 大体、王族など美しいのが当たり前なのだ。

 物語なんかに登場する王子や王女はたいてい美形だが、これは決して御都合主義では無い。考えてもみろ、一国の王ともなれば国中の美女をよりどりみどりだ。淘汰を繰り返すうちに王族や貴族が美男美女だらけになるのは自然の法則である。そうして他国の王族や貴族相手にまた結婚しまくるから、この循環は革命でも起こらぬ限り続くというわけだ。

「シュンセツさん、お部屋の用意が出来ました」

 話の間二階に行っていたユーアが、降りてきて声をかける。

「では、また後ほど……」

 シュンセツはヴィネの手を引き、ゆっくりと階段を昇っていく。

 ホタルが小さな声で言った。

「リオマお兄ちゃん。僕、今日は踊れないかも知れない」

 何だ、急に。

「ちょっと……調子が、悪いんだ」

「ホタルくんも、悪いものでも食べたの?」

 俺もホタルも、ずっとお前と同じものしか食ってないぞ。

「そんなんじゃないよ」

<小さいながらも、あの先生同様アーティストやからな。気乗りがせん日もあるやろうさ、そら>

 サキョウが言う。今朝もいきなり口を開いて(こいつの場合、比喩的表現だが)ホタルを恐怖に陥れたことを思い出した。

「サキョウ、突然喋ってヴィネさんを驚かせるんじゃないぞ。大事な体なんだからな」

<任しとき。なんつっても、無口でニヒルなんが売りやから>

 ……はいはい。











 その夜。

 いつも通りの麒麟亭の喧騒。

「すまんな。こんなやかましい所で食事させて」

「何をおっしゃる。こうして泊めて頂けるだけでも感謝の言葉がないというのに」

「ええ。それに、こういうのも楽しいですわ」

 シュンセツたちとそんな会話をしていると、鍛冶屋のジュトウが幾人かの連れと共に入って来た。

 ジュトウは最初に俺を見、次にシュンセツを見、そしてヴィネのお腹に目をとめた。

 口がニヤッと歪む。

「おい、リ……もがッ!?」

 俺が投げた胡椒入りの小袋がジュトウの口を塞ぐ。

「ぐぶげはぁっ! の、喉が、や焼けるぅぅ!!」

 ユーアはもう何も言わずに、水を汲んだコップと雑巾を持ち出した。そう、俺に対しては皮肉なぞ言うだけ無駄である。

「げほげへっ、ま、まだ何にも言ってねぇだろっげほ!」

 コップの水を飲み干してジュトウがなじる。

「全部言ってりゃ胡椒じゃ済まんぜ」

 夫妻が怪訝な顔で俺を見た。

「何なんですか、いったい……?」

「いや、ちょっとしたいつもの余興だ。気にする事はない」

「――それはそうと、リオマ」

 近くの席の客が話しかける。

「昨日の踊り子ちゃんの出番はまだかい?」

「ああ。今日はどうも都合が悪いらしい」

『ええー!?』

 俺の言葉に、客たちは一斉に立ち上がった。

「嘘だろっ。俺はそれだけを楽しみに来たんだぞ。そうでなきゃ二日も続けて来るか、こんな店」

 ……言ってくれるな、おい。

「おひねりだってタップリ用意してきたのに」

「まあ、運が悪いとあきらめてくれ」

 と、やおらシュンセツが立ち上がった。

「えー、皆さん、まあ落ち着いて」

 いきり立つ客たちを見渡す。

「その踊り子さんに及ぶかどうかはわかりませんが、ここは一つ、私が皆さんの似顔絵を描いて差し上げるというのはどうでしょう」

――つくづくお人好しの先生だが、ともあれこの場は助かる。

「このおっさん、高名な画家だそうだ。今日はそれで我慢してくれ」

 シュンセツは二階から道具を取ってきて、一人ずつ順番に描き始める。

 流石に大したものだった。後ろで見ている連中からも声が漏れる。

「……あなた、先に上に行ってますわ」

 ヴィネがそう言い、ゆっくりと席を立つ。付き添おうとしたシュンセツをユーアが押しとどめた。

「私が行きます。シュンセツさんは絵を続けていて下さい」

 ユーアはヴィネの手を引き慎重に歩きだした。

 そうこうするうち、一人目の絵が完成する。

「おお!」

 受け取った男は、感嘆の眼差しで絵を眺め、押し戴いた。

 そんな風に、次々と似顔は完成していった。

「……やっぱり、何度見ても凄いよなぁ」

 最初に描いてもらった男が呟く。

「タダでは受け取れないよ」

「そうとも、これには正当な報酬を支払わなきゃ」

「と、言うわけでぇ……」

 ジュトウが皆の前に進み出る。

「そーれ、投げろ投げろ!」

 おひねりを一斉に俺にぶつけ出す客たち。降りてきたユーアも、面白がって加わる。

「やめんかっ、貴様ら!」

「いつもの仕返しだ! 喰らえ!」

 畜生、いじめられっ子か俺は!?

 コインの雨を、俺はフライパンで受け流す。

「……!……!」

 その、金属同士が激しくぶつかり合う音の中に、誰かの叫びを聞いたように思った。

「おい、ちょっと静かに!」

 俺の声の真面目な響きに、連中は大人しくなる。
「リオマお兄ちゃんっ!」

 ホタルが階段を駈け降りてきた。

「おばさんが、お腹を押さえて、苦しいって……!」

「え、まさか!?」

 ユーアが息を呑む。

「やっぱり、何か悪いものでも食べたのかしら……」

「この非常時にボケてる場合か。ユーア、シャティの家に行って事情を説明してきてくれ!」

「え?」

 ちっ、話してなかったっけ。

「あいつの旦那は、医者なんだよ。そうだジュトウ、お前シャティん家知ってるな、一緒に頼む!」

 ヴィネの事を知らないジュトウと道を知らないユーアは揃って飛び出して行った。

 二階に急ごうとした俺は、何が起こったかわからず立ち尽くす客たちに気付いた。

「おい、お前ら。今日はもう閉店だ。とっとと帰れ」

「何ぃ! まだ一杯しか呑んでねぇんだぞ」

「そうですよ。それに私はまだ絵も描いてもらってませんよ」

「これからがいいとこじゃないか」

 ……この連中ときたら、まったく……。

「――今日の勘定はナシでいい」

 俺の言葉を聞くや否や、彼らは一斉に叫んだ。

『さあ、みんな帰ろうぜ! 邪魔しちゃ悪いしな!』

 ……。

 階段を昇ろうとして、俺はもう一つ忘れていることを思い出した。

「シュンセツ先生、何処に行ったんだ?」

 彼は床に仰向けに倒れていた。

 隣にコインが転がっている。何代か昔の王の顔が刻まれた銅貨だ。

 さっきの騒ぎのとばっちりを受けたらしい。

 額にしっかりと痕が残っている。

「何やってんだろうね、この人は……」

 左右が反転した国王の横顔が、あざ笑うように貼り付いていた。











「はぁ~い! お姉さんの登場よ、リー坊!」

 下でふざけた声が聞こえ、俺は軽い頭痛を覚えながらも立ち上がった。

 意識を取り戻していたシュンセツにヴィネのことを任せ、階下に降りる。

「シャティ姉に用はねぇよ。俺はノーヴィを呼んだんだ」

 飄々とした風情の男が後に続いて入ってくる。シャティの夫、ノーヴィだ。

「こんな時間にすまないな。ノーヴィ」

「いえいえ、おかげさまで月夜の散歩を堪能させてもらったよ。今宵の綺麗な月を見ていると、何だか人の生き死になんて、ちっぽけなものに思えてくるね」

 不安を誘う台詞だが、この旦那は評判の名医である。

「さっそく患者さんを見るとしようか。シャティ、助手を頼むよ」

 結局、俺とユーア、シュンセツが下に残されることになった。ホタルはややこしいので寝かせてしまった。

 シュンセツ先生はうろうろとひたすら歩き回っている。

「鳴呼、ヴィネ……」

 ぴたり、と立ち止まり、テーブルを拳で殴りつける。

 ……こらこら。

「いつも、こうだ。いつも私は、何もしてやれない……」

 そんなシュンセツの姿を見てユーアが切なげに目を伏せた。

「――若い頃は、自分には無限の可能性があると思っていた。絵によって、全ての人に感動を伝えられると信じて疑わなかった。

 だがどうだ、どんなに名声を得ようと、どんなに素晴らしい絵を描こうと、ヴィネには――この世の中で一番見て欲しいと願う人には、決して感じてもらえない!」

 俺はハッとした。天才画家と、光を失った妻。とてつもなく深い隔たりを、この二人は補って生きてきたのだ。

「しょせんそれが絵画の限界なのだ! 私が半生を捧げた道のな!」

「落ち着けよ、おっさん」

 シュンセツはそれきり黙りこくり、徘徊を続ける。

 うーん。何て気まずい雰囲気だ。

「ユーア、そう言やジュトウの奴はどうした?」

 話をそらそうと試みる。

「そのまま帰っちゃいましたよ」

 彼女もほっとしたように言う。

 だが、それきり話題は続かない。

 上の階で、ドアの開く音がした。シャティが降りてくる。

「どどどうですか、よ様子は!?」

「今夜中には、産まれるわね」

 それを聞き、シュンセツはその場にへたりこむ。両手を合わせ、祈りを捧げた。

「ああ、霊峰カムイよ……ヴィネと子供を、お守り下さい……」

「今の内に休んでおいたほうがいいわよ、先生。これから何があるかわからないんだから」

 あまりデリカシーの感じられない物言いだが、こういう時のシャティには妙な説得力がある。シュンセツはよろよろと立ち上がり、椅子の上に崩れるように座った。

「あ、ユーアちゃん。ちょっと私の代わりに上に行っといてくれない? リー坊はお湯を沸かしといて。出来るだけたっぷりとね」

 ユーアは素直に従う。一方俺は――火を起こしながらシャティに尋ねた。

「何か、話でもあるのか?」

 あのくらいで疲れたりするようなタマじゃない。ユーアを上にやったのはそれなりの理由があってのことだろう。

「別に大した話じゃないんだけど……」

 そこらの椅子に腰掛けてシャティが言う。

「あんたが産まれた日のこと、思い出しちゃってね」

 足を組み、静かに笑うシャティ。

「リオマは、お母さんを憶えてないわよね」

「ああ。俺が二つの頃だろ、死んじゃったのは」

「本当は、私が母親代わりになってあげなくちゃいけなかったんだろうけど。私はあんたの『姉』でいることで精一杯だったから……」

 シャティはぼんやりと宙を見つめながら呟くように語った。

「で、結論は?」

「リー坊が早く落ち着いてくれないと、お母さんに申し訳が立たないってこと」

 話が良くわからない。

「にぶい子ねー」

 ようやく、いつもの悪戯っぽい表情に戻る。

「あんた、まだユーアちゃんと別々の部屋で寝てんのね。お姉ちゃんガッカリ」

 ……あのなぁ。

 何かと思えばそういうことか。シャティは事情を知らないからそんな呑気なことを言ってられるんだ。

「あの子は、幸せに慣れてないのよ。私にはわかるわ。いつも強く抱きとめようとしすぎて、壊してしまう……」

 俺はいいかげんに辟易して、テーブルの上でまだ祈ってるシュンセツのほうに目をそらした。

「ちょっと、聞いてるの、リー坊? ユーアちゃんはいい子よ。あんたがしっかり守ってあげて」

「どうして俺がそんなこと――」

 俺は窓際に逃れ、夜空を眺める。

――確か、人は死ぬと天に昇って星になるって言い伝えがあったな。

 母さん、か。

 シャティも席を立ち、俺の隣に来た。

――だから、流れ星と共に産まれた子供は、大人物の生まれ変わりだとする伝説もある……。

 逃避している俺を引き戻すように、シャティが肩にポンと手を置いて言った。

「リオマは、簡単に潰れたりしないでしょ? もう一度言うわ、あの子を幸せにしてあげて。あんた自身のためにもね」





 じりじりと、時は流れていく。

「先生よ、そんなに気になるんならそばで見てりゃいいじゃねェか」

 不安を紛らわすべく、だろう。彼は紙に鉛筆で何やら絵を描いては、次々に丸めて捨て ている。

 資源の無駄遣いだ。

 足下にはゴミの山が出来上がっていた。ちりも積もれば邪魔となる。

「いやいや、それこそ精神が耐えられなくなるに決まっている。ああ、どうして私はこんなに気が弱いんだろう……」

 くしゃくしゃ。またゴミが増える。

 その寸前に、彼が描いていたものが目に入り、俺はつい頬をゆるめた。

 赤ん坊の顔。想像画。

「ちょっと様子を見てきてやるよ」

 立ち上がり、二階へ行く。

 ヴィネの呻き声が聞こえてくる目的の部屋の手前で、急にドアが開いた。

「ホタル。まだ起きてたのか?」

 だが目はとろんとしており、完全に寝ぼけているようだ。

 ろれつのはっきりしない、妙な口調でホタルは言った。

「今しがた、流れ星を見ましたわ。こう、すうっと、とっても綺麗……」

 女言葉?

「はいはい。今はお芝居をする必要はないんだ、ホタル。大人しく寝てな」

 ホタルは枕を抱えたままトコトコと部屋に戻っていく。

――と、その時。

 ひときわ大きないきみ(・・・)を最後に、ヴィネの声がやんだ。

 数呼吸置いて……元気な産声が麒麟亭に響く。

「ううう産まれたっ、ヴィネ、ヴィネっ!」

 シュンセツが鬼にでも追われているかの勢いで階段を駈け昇って来……そして最後の段に足をひっかけ、床に思い切り額をぶつけた。

「お、おい、大丈夫か」

「当たり前です! こんな大事な時にまた気絶などしてられますかっ!」

 ガバッと跳ね起き、扉に走り寄る。

 いやはや、父は強し。

 扉が開きノーヴィが出て来た。

「ふう、難産だったけど奥さんは無事だよ。ご安心を」

「ででで、こっ子供は――」

 ノーヴィは顔を曇らせた。

「それが……残念だけど……」

 みるみるシュンセツの顔が蒼白になる。やばい。卒倒するぞ、ありゃ――

「父親そっくりの男の子でね……奥さんに似てりゃ美形だったろうに、残念だねぇ……あれ、シュンセツさん? そんな所で寝られちゃ困るよ、ねえってば……」











 外に出た俺は、大きく息を吸い込んだ。

 いつの間にか夜は明けている。

 真っ白な光が、やけに眩しかった。

 目を閉じ、大きく伸びをする。

人が死ぬところは、反吐が出るほど見てきた俺だが……。

「……人が産まれるのに立ち会ったのは、初めてだな」

 朝日の中で、俺はそう呟いた。

 シャティとノーヴィの似た者夫婦は自分たちの家庭へと帰っていく。

 その後三日間、麒麟亭は特別休業した。

「シュンセツさん、馬車の手配が出来ました!」

 ユーアが駈け込んで来る。

「もう行くのか。まだ休んでいったほうがいいんじゃないか?」

 ヴィネの体調が良くなり次第、彼らは旅立つことにしたのである。

「そこまでご迷惑はおかけ出来ません。姑も怖いですし……」

「旅をしながらの子育てなんて、大変でしょう」

 ユーアの言葉に、ヴィネはニッコリ笑ってみせる。

「大丈夫ですわ。私にはこの子の顔を見ることは出来ないけど……この子の命、この子の心は感じられます」

 抱いた赤子の、玩具のように小さな手を握りしめる。

「だって、最愛の夫と私の子供なんですもの……」

 赤ん坊は不思議そうに母の顔を見上げ、空いたほうの手でヴィネの頬を撫でる。シュンセツはそれを目を細めて眺め、言った。

「リオマさん。私は間違っていたようです」

 最初は何のことだかわからなかった。

「絵画の限界などと偉そうなことを言って――結局私は自分の限界を認めてしまうことが怖かったんだ。でも、もう大丈夫です。今は、ヴィネにも感じ取ってもらえるような絵が描けるかも知れない、そんな気がしてるんです」

 彼は妻の肩に手を回し、つながれたヴィネと赤子の手の上に、自分の手を重ねた。

「それに、この子は……これまでのどの作品にも優る、私の最高傑作ですよ」

 シュンセツは照れたように笑った。

「じゃあタイトルは――名前はもう決まってるのか?」

「キリン、と言うのはどうでしょうね」

 俺の顔を見るシュンセツ。

「――光栄だね」

「本当はもっとちゃんとしたお礼がしたいのですが。そうだ、いずれいい絵が出来ればお送りしましょうか?」

 俺はその申し出を辞退した。

 この親バカ先生のことだ。この子、キリンの肖像を毎年毎年送りつけるぐらいのことはやりかねない。

「バイバイ」

 ホタルが手を振る。

 そうして、彼らは去っていった。

「あの子、幸せに育ちますよね」

 寂しげなユーアの呟きが胸の中で反響し、昨夜のシャティの言葉にぶつかって止まった。

 幸せにしてあげて……リー坊が早く落ち着いてくれないと……。

 家族。

 俺にはそんなものを作る資格はないだろう。

 若い頃も同じことを思ったことがある。シュンセツと違い、俺は自分の可能性なんて、 これっぽちも信じられなかった。自分の存在は周りを不幸にするだけだと思っていた。

 その思いは今も続いている。だがその頃と決定的に変わってしまったことが一つある。 


『そんなことはないわ』 ――そう言ってくれる人は、もういない。


  

Posted by 白川 嘘一郎 at 21:50Comments(0)

2010年09月27日

◆ 肆、 出血大奉仕



 『時震』が起こり、鎮まる。

 少し季節が逆戻りしたような日差しが、気温を高めていた。

 表の石像をまた水洗いしている俺。ユーアに命じられてのことだ。

 今日の買い出し当番はホタル。少々心もとないが、本人のたっての希望による。そういう経験はあまりしたことが無いらしい。

――それにしても、暑い。めまいがしそうだ。俺は湯気でも立ちのぼっていそうな地面に水を撒く。ほとんど気休めにしかならないが。

 暑い。思考が揺らぐ。……と、誰かの声がした。

「おい、貴様っ!」

 顔を上げる。

「人に水をかけといて何の挨拶も無しか!?」

 若い男が一人、その後ろに二人。視線を下げると、彼の足が水びたしになっている。ぼんやりとした頭で謝ろうとして、俺はふと男の腰に目をとめた。

紋章入りの禍多泣(かたな)。――沙邑尉(さむらい)だ。

「こんにちは。今日も腹が立つほどいい天気ですね」

「一雨欲しいところですね……って、そうじゃないだろっ! 謝れと言ってるんだよ!!」

 結構ノリのいい奴だな。

「すまんな。ちょっと冗句が低級すぎたかな」

「だからっ、謝るのは水をかけたことに対してだッ!」

とうとう堪忍袋の緒が切れたか、禍多泣(かたな)を抜く。

 脅しかと思っていたら本当に振り下ろしてきやがった。しょせんはこういう奴らだ。俺はその刃を、手にしたひしゃくで受け止める。

「――お主、出来るな」

 木のひしゃくに刃がしっかり食い込んでいる。あとで弁償しろよ、おい。

「それぐらいにしておけ、ラザン」

 後ろの男のうち一人、総髪の男が進み出る。こいつも若い。端正ではあるが、どことなく冷たい顔だちだ。

「ハヅキ隊長。しかし……」

 隊長とやらが睨むと、ラザンと呼ばれた男は沈黙した。

「我が姓は燕(えん)、名はブロイ、字はハヅキ。まずは部下の非礼を詫びよう」

 詫びているようには見えない様子でハヅキは言う。

「ハヅキか。――あんた、ひょっとして八月生まれか?」

「大きなお世話だっ!」

 思わず声を荒らげ、二人の部下たちから白い目で見られた彼は、きまり悪そうに咳払いした。

「こっちは一歩間違えりゃ死ぬとこだったんだ。それだけで済ませる気か?」

「最初の原因は貴様だろう!」

 ラザンが横から叫ぶが、もう一人の坊主頭の同僚に押しとどめられる。

「いくら沙邑尉(さむらい)でも、あれしきで町人を斬る権利はないと思うがな。こっちだって、真昼の貧乏酒場の前をお偉いあんた方が通るとは知らなかったんだ」

「……何が欲しい」

「王族の番犬から施しを受けるほど落ちぶれちゃいない。ただ一つ、あんたらが何故こんな街を歩いてるのか、その任務の内容を聞きたいな。ひしゃく代は水をかけた事と帳消しにしてやるが、刃を向けられた償いとして、それぐらいは要求してもいいだろう」

 眉根を寄せるハヅキ。

「損はしないと思うぜ。何か協力出来るかも知れんしな」

 大嘘である。死んでもこんな連中に協力などするか。単に困らせてやりたいだけだ。

「――いいだろう。ただし、他言は無用だ」

「隊長!?」

 ハヅキの言葉に、部下二人は驚きの声を上げる。

「わかっている、ラザン、テラ。だが、確かにこの男の言うことにも一理ある」

 そうそう。こういう律儀で融通のきかない手合いを動かすには、権利だの義理だのといった綺麗ごとをちらつかせるに限る。

「我らの使命は、二週間ほど前から行方不明の第十八代王女妃殿下をお探しし、保護することだ。そして暗殺針ギルドも妃殿下を狙っている。それだけだ」

 王女が? なるほど、それでか……。

「何か知らぬか?」

「さあ……その姫さんの特徴ぐらいは教えてくれんと、何とも言いようがない」

 ハヅキはかぶりを振る。

「それは出来ん」

「何故だ?」

「お主が敵ではないという保証はない。お主が本当にただの町人かということと同様にな」

 使い物にならなくなったひしゃくに目をやるハヅキ。

「慎重だな。まあいい、情報を掴んだら連絡してやるよ。ラディッシュ亭のハヅキだな」

「ああ。くれぐれも口外せぬように」

 ハヅキはうなずき、二人を連れて通りの向こうに消えていった。角を曲がる際、ラザンが挑戦的な視線を向けていったが、しょせん負け犬の遠吠えだ。

 ハヅキにテラにラザンか。名前と居場所さえわかれば幾らでも嫌がらせの方法はあるってもんだ。ニセ情報を流すのも面白い。

 それらを実行した様を想像すると、わずかに良心が痛んだが……まあいい、何もかもこの暑さが悪いんだ。





「……ということだそうだ」

 家の中に戻り、ユーアが入れてくれた水を飲み干した俺は、彼女に事情を説明してやった。

 他言無用? 知ったことか。

 彼女の反応を確かめる

「へぇー。それは大変ですね」

 あまり驚いているふうではない。もしかしたら……。

 ユーアが倒れていたのは丁度二週間ほど前。

 シュンセツは、王女を十五歳だと言っていた。

 もし、こいつが俺が思っているより幼いとしたら? 他にも思い当たるふしは幾つかある。

 俺はコップを磨くユーアをじっと見つめた。

「あっ」

 突然、ユーアが思い出したように言う。慌てて目をそらす。

「リオマさん、ホタルくんが帰ってくるの、遅くありません?」

 言われてみれば、ここを出たのはずいぶん前だ。

「何かあったんでしょうか……やっぱり一人で行かせなきゃ良かった」

 心配性だな。何処かで寄り道でもしてんだろう。

「リオマさん、探して来てくれません?」

「嫌だ」

「……どうして?」

 決まってんだろ。暑いからだよ。

「私じゃ、いざという時に頼りにならないでしょ」

 何だよ、『いざという時』ってのは。相変わらず良くわからない娘だ。

「素直に行って下さいよ。私だって、リオマさんの『あの話』とか『あんな話』とかを言いふらすといった手段には訴えたくないですし」

「――どういうことだ、そりゃ」

 一筋の汗が額を伝う。気温のせいばかりではない。

「こないだシャティさんに聞きました。リオマさんて、あんな恥ずかしい体験してたんですね……ぷっ、あははは」

 あ、あのバカ姉貴……!

「……行ってくる。帰ってくるまでに飯の支度しとけよ」

「あ、リオマさん」

 背中を向けた俺に声が飛んだ。

「まだ何かあるのか?」

 振り向くと、ユーアは真面目な表情に戻っていた。

「いつも無理を聞いてくれて、ありがとう……ちゃんと帰ってきて下さいね」

「は? 何を今さら」

「いえ……なんとなく、そう言わなくちゃいけないような気がして」

 つくづくわけのわからない奴だ。

「衝動だけで生きてんじゃねぇよ」

 捨て台詞を残して扉を閉ざす。

「あ、あなたに言われたくありませんっ!」

 後ろで何やら叫んでるようだが……空耳だろう、きっと。











 ホタルは八百屋で見つかった。

「ねーねーおじさん、これなんてお野菜?」

「それはピーマン。……なあ、ボク。いいかげんにしてくれないか。おじさんをからかってるんだろ」

「ううん、ホントに知らないんだもん。あ、これは?」

「ホウレン草。おうちの人が待ちくたびれてるよ、たぶん」

 八百屋の親父。嫌な奴だが確かにあんたが正しい。

「何やってんだ、ホタル」

「あっ、お兄ちゃん。八百屋さんって面白いんだよ。ほらこれはナスビって言うんだって」

――知っとるわい。

「リオマの知り合いかい。頼むから何とかしてくれよ」

 汗だくの太った親父。あまり近寄りたくない。

 悪い奴ではないのは知っている。しかし、生理的嫌悪というのはどうしようもない。

「帰るぞ、おい」

「えー。やだ、もうちょっと」

 駄々をこねるホタル。

「人の言うことを聞かないような奴は追い出すぞ」

「だったらリオマお兄ちゃんが最初に追い出されるね」

 ホタルは平然と言った。

 このガキ、いつの間にこんな知恵を。……ユーアの悪影響だな。

「いいから来い!」

 ホタルの首根っこを引っ掴む。

「じゃあ最後にこれだけ! これはなぁに?」

 タマネギを指し、無邪気に尋ねる。俺はため息をついた。

――旅芸人一座なんぞに育てられると、こうなっちまうのかねぇ。

 俺はホタルの足下に置かれていた食料が詰まった袋を持ち、歩き出した。

「あんまり遅いんでユーアが心配してたぞ」

「うん、ごめんなさい。だって料理されたところしか見たこと無いんだもん」

 そんな事を話しながら、麒麟亭へ向かう。

「そうだホタル、お前にも教えとこう。何でも王女様が行方不明らしい。それが騒ぎの原因だとさ」

 くれぐれも口外せぬように? 知ったことかって言ってんだろ。

 ホタルは黙ったままだった。たぶん理解していないのだろう。

沙邑尉(さむらい)どもが必死で探してるようだが……だったら最初から姫に護身術くらい仕込んどけっての。どうせ王族なんざ、働かなくても食っていけるヒマ人だろうが」

 戦闘用に訓練されたお姫様ってのもちょっと怖いけどな。

「まあそういうわけで、おっかないお兄さんたちもウロウロしてるから、お前も気を付けろよ」

 と、突然ホタルが立ち止まる。

「どうした?」

「ごめん、ちょっと足が疲れちゃった。しばらく休ませて……」

 やれやれ。

 俺はホタルに背を向けてしゃがみこんだ。

「?」

「乗れ。背負ってってやるよ」

 ホタルは少しの間突っ立っていたが、やがてためらいがちに俺に身体を預けた。

 思ったよりも軽い。

「僕……」

 ホタルの声が耳をくすぐる。

「こんなことしてもらったの、初めて……」

 ホタルの全身に必要以上に力が入っているのがわかった。腕を突っ張らすようにして、俺の背中になるべく身体を押しつけまいとしているようだった。

「楽にしてていいんだぞ。どうせ俺にかかる体重は変わりゃしねェんだから」

 俺はホタルの呼吸のリズムに合わせ、足を運んだ。

 麒麟亭の看板が見えてくる。

――扉が開け放たれていた。

 そりゃ、今日は暑いが……妙な胸騒ぎがする。ホタルを下ろし荷物を預け、俺は中に飛び込んだ。

「ユーア?」

 応えはない。

 テーブルの上に、普段の通りに三人分の食器が並べられている。その横に、刃物で記号が彫りつけてあった。

 ギルドのサインだ。俺が理解できる事を知っていて、彫りつけて行ったのだろう。その意味するところは、『人質』。

 ……畜生!

「どうしたの、お兄ちゃん」

「いや、何でもない。お前はここにいろ。わかったな」

 ギルドのやり方は良く知っている。あちらにとって有利な状況を整えてから、改めて俺を呼び出すつもりだ。

 だが、それを待っていてやるほど俺はお人好しではない。そっちがその気なら、今すぐ決着を付けてやる。

 『人質』という言葉にひっかかるものを感じたが、冷静になることに精一杯だった俺は深く考えないことにした。目を閉じ、息を吸い込む。取り戻せ、あの頃の感覚を!

 目を開く。

――まずは辺りを見回す。血痕の類いはない。だからと言ってユーアが無事であるとは限らないが、少なくとも彼女を傷つけるのが目的に含まれていないということはわかる。

――扉付近を調べる。今はもう乾いた固い地面に、かすかに見慣れない足跡があった。俺が水を撒いてから、そう時間が経たないうちにここを通ったわけだ。ならば、無闇に走っても追いつくのはかなり難しいだろう。勿論足跡はすぐに途切れている。

――再び家の中を探す。何か……何でもいい、手掛かりは!?

 テーブルの上。他の食器はあるが、コップは無い。それなりに几帳面なユーアだ。準備の時はそれも一緒に出す筈だ。

 ユーアの行動を頭の中でトレースしてみる。皿を並べ終わって、コップを取りに行った時に……邪魔が入った!

――流しの向かいの食器棚。何か俺にサインを残すぐらいのことは、思いついてもおかしくはない。

 探してみる。だが、いつもと同じに食器が整列しているだけだ。考えてみれば、あいつが、これから自分が連れ去られる場所を知ってるわけがないな……。

 打つ手なし、か。くそ……。

<ユーアちゃんをさらった男なら、出て右に走っていきよったで。そっから先はわからんけど>

 思わぬ声に、俺はその場に突っ伏した。

<眠らされただけやったから、今のところ心配いらんやろ>

「サキョウ! てめぇは……!」

<しゃあないやろっ、ポットの私にどないしろと? 文字通り手も足も出えへんかったわ!>

 ……俺の名推理の立場はいったい……。

「でも結局、進展は無いわけか」

<いや、そうでもないで。あの子は頭のええ子や。流しを見てみい>

 小さな小便小僧の首から上が欠けていた。おいおい、貴重な魔術の品だぞ……。

――魔術の品?

「サキョウ、行くぞ」

<了解>

 待ってろよ、ユーア。必ず助け出して弁償させてやる。

 ポカンとしているホタルを置いて、俺は麒麟亭を飛び出した。











 サキョウを抱えて俺は走る。走る。

 照りつける太陽も、周囲の人の目も、今は気にしない。気にならない。

<リオマ、お前もやっぱり人の子やな>

 方向の指示を出す合間に、サキョウが言う。

「あまり余計なことを喋るな。他人もいるんだぞ」

<……また『俺にその資格はない』とか気障なことゆうて、見捨てるかと思たわ>

「格好つけるのは、いつでも出来るからな」

 そう、今は自己卑下にひたっている場合じゃない。

 どうも敵は俺の追撃を警戒し、わざと出鱈目な道筋で逃げているようだが、居場所を感知できる俺たちに対しては何の意味も無い。むしろ距離を縮めるだけである。

<あ、動きが止まりよった。……いや、まだ少しは動いとるけど本拠地に着いたようや>

「どの辺だ?」

 サキョウの答えと、街の地理とを重ね合わせてみる。人の住んでる所から少し離れた……墓地?

なるほど、いかにもギルドの連中が好みそうな殺陣(たて)の舞台だ。

 俺は走る。

 墓地にあと少しと近づいた所で、俺は足を止めた。敵の影がないのを確認して呼吸を整える。この辺にはもう人家は見えない。

 サキョウを地面に置いた。

「忘れてなかったら取りに来てやるよ」

 忘れてなかったら。そして……。

<こんな所に置かれたら汚れるやないか。後でちゃんと洗えよ>

 生きていたら、か。

<約束やぞ、ちゃんと……ちゃんと戻ってきて、洗うんやぞ!>

 俺は軽く手を振って、歩き出す。

 この墓場、ちょっとした森に囲まれているが、敷地自体の中にあるのは墓石ぐらいで視界を遮断するものはない。

 恐らくその中央に陣を敷いているだろう。どこから入っても同じってことだ。

 とは言え墓地に続く道を歩くのは避け、脇の茂みの中を注意深く動く。気の早い樹が落ち葉を散らせ始めていて、それを踏む度に音がするのは仕方ないが。

「ん?」

 剣戟の音?

 そちらに近付く。罠ということも考えられるが、音を聞く限り、これは本気の戦いのようだ。

 木陰から気取られぬよう覗いてみると――あのハヅキとかいう沙邑尉(さむらい)が、一人の暗殺針と道の真ん中で切り結んでいた。あ、あいつは麒麟亭に押し入ったトリオの一員だ。

 ハヅキはここの場所を何かで掴んだのだろうが、ご丁寧に道を通って乗り込もうとしたらしい。近くに部下のテラとラザンが倒れていた。少し離れた茂みの中に、やはり倒れた男。

 基本的な戦術だ。一人が正面から対峙し、注意がそれたところを隠れた相棒が“狙撃”する。ハヅキは部下をやられながらも狙撃手のほうは倒したようだ。しかし、目の前の相手には苦戦している。

この地形では、長い禍多泣(かたな)は不利なのだ。暗殺針の短刀に翻弄されている。最初に脇差を抜けばいいものを、日頃から太刀を重視しているからこうなる。武器を持ち替える隙はない。

――冷静に観察している場合じゃないな。あいつを助けるのも癪だが、他人と戦っている相手ほど倒し易いものはない。俺は懐に常備している針の内一本を取り出した。“赤蠍”の名の由来となった、朱塗りの針。普段は筒状の鞘に入っているが、そこから引き抜くと自動的に毒が塗布される仕掛けになっているのだ。

暗殺針が短刀を閃かせる。ハヅキの右腕が血を吹き上げる。

 枝々の隙間。一瞬だけ射線が通る。

 俺はその一瞬を逃さなかった。

「ぐっ!?」

 勝利を確信していたその男は、首筋に俺の針を突き立て、呻きと共に地面に転がった。

「? これはいったい……」

 腕を押さえ、そう呟くハヅキの前に、俺はゆっくりと姿を現す。

「よう。また会ったな」

 驚きが彼の顔に広がる。

「お主……何故ここに?」

 そりゃこっちの台詞でもあるが。

「なに、ちょっと御先祖の供養にね」

「悪いことは言わん、やめておけ。この先は危険だ」

 ……本気にするなよ……。

俺はそれとなく暗殺針たちの武器を確かめる。即死毒は使ってないようだ。こいつらが俺のために集められたのなら、向こうには俺を殺す意思は無いということになる。結果的にはそれが、沙邑尉どもの命を助けたわけだ。

「ハヅキ、お前らは何をしてたんだ?」

「女を抱えた怪しい奴が通りを走っていたのでな。後を追ったらこのザマだ」

 俺はハヅキを見る。腕だけでなく、あちこちに傷を負っている。

「その様子じゃこれ以上の戦いは無理だな。自分たちの手当てでもしてろ。その敵もふん縛ってたほうがいいな。そのうち目を覚ますかも知れん」

「馬鹿を言うな! 私には、任務がある。任務が……」

「命を賭けてお国のために、ってか。どっちが馬鹿だ。死んじまったら任務もクソもあるか。たかがそれだけで――」

「違う! それだけではない!」

 いつも冷静なハヅキの声に、ふと熱が混じった。

 言ってから、気が付いたように取り繕う。

「否、勿論我らには任務こそ至上だが……他にも理由があるのだ」

「何だ?」

 黙り込むハヅキ。

「俺は命の恩人だぞ」

「…………」

 間を置いて、ぼそっと言う。

「大したことではない。奴らに殺られた親衛隊の中に、友と呼べる人間がいた。――取るに足らん、下らんことだ。聞かなかったことにしてくれ」

 …………。

 そうか、そうだよな。

沙邑尉(さむらい)と言えど、人間なんだ。冷酷な人形じゃない。俺はその当たり前のことに気付いていなかった。いや、目を背けていた。

 俺は笑った。

「あんたの気持ち、良くわかるぜ。だが、こっから先は俺たちの世界だ。――あんたみたいな真面目な人間が足を踏み入れちゃいけない」

 そうだ、先程の戦いぶりでわかる。多少剣技には長けていても、ハヅキは人を殺したことが無い。

「名を、聞いていなかったな」

 彼を残して歩きだした俺の背中に声が飛んだ。

「……リオマだ。憶える価値は無いと思うがな」





 俺は雑草だらけの道を辿る。ハヅキたちが騒ぎを起こした以上、今さら隠れてもしょうがあるまい。

 低い塀に囲まれた、墓地。

 その入口に立つ。おごそかに並んだ墓石。

 思った通り、その中央。ひときわ頑丈そうな卒塔婆にユーアが縛りつけられているのが見えた。口には猿ぐつわを噛まされ、典型的な人質ルックだ。

 捕らわれのお姫様、か。これまた典型的なシチュエーション。そして、救い主の白馬の王子が俺だ。が、ただ一つ違ったのは、王子様は殺し屋だったのです――。

 ユーアの横に一人の男が立っている。凶々しい、黒い刀身の剣を手に握り。

 不思議と、怒りやその他の感情は湧いてこなかった。今の俺にあるのは『任務遂行』の使命感のみ。そう、あの頃のように。

「おや、これはこれは。思ったよりも早かったですねぇ。後ほど正式に連絡を差し上げようと思っていましたが」

 男は刃をユーアの首筋に当てる。ユーアが俺を見る。訴えかけるような眼差しで。

 助けて、か。気をつけて、か。どちらかはわからない。

 奴との距離は、大股で二十歩弱ってとこか。少し遠いな。

「わたくし、“蜻蛉”(かげろう)と申します。以後お見知り置きのほど、どうぞよろしく……。俗っぽい言い方をするならば、あなたの後輩ということになりますかね、“赤蠍”」

“蜻蛉”ねえ。聞いたことがあるような気もするが。

 しかし、お近付きになりたいとは思わない。

「ユーアを返してもらおうか。これでもいちおう、ウチの大事な看板娘なんだ」

「あなたの態度次第ですね。だからこそ、この女をさらうといった、回りくどいことをしたんですから」

 ……? 何か妙だ。会話にズレがあるような気がする。

「素直に王女の居所をお教え願えませんか? さもないと、このお嬢さんは首と胴が離れたまま生活しなくちゃなりませんよ。――それでも生きていられたら、ですけどねぇ」

 どういうことだ。ユーアは……王女じゃないのか? それじゃあ、いったい。

「――どうやら勘違いしてるようだぜ、お前は。俺は王女など見たことも聞いたこともない。二人は倒した。後はお前一人だろ。無意味な危険を冒すことはない」

「わたくし一人?」

“蜻蛉”は笑った。

「やはりカンが鈍ってるんじゃないですか、“赤蠍”」

 俺は黙って針を引き抜いた。ユーアに押し当てられた、奴の剣に力がこもる。

 だが、俺はそれより早く、針を放った。少し離れた銀杏の樹の枝の上に向かって。

 呻き声。ドサリと音がする。

「自分の気配も殺せん暗殺針など、数に入れる必要はないな」

“蜻蛉”はこちらを見、大声で笑いだした。

「はっはははは。現役を退いたとは言え、まだまだ衰えてはいませんね。若い連中の間では、もはや伝説ですよ、あなたは」

「むーっ!!」

 ユーアが何やら言っていた。俺なりに想像して訳してみる。

(格好つけるためだけに、私の命を危うくしないでっ!!)

 人質なんだ、簡単に殺したりはしないだろう。目的を果たした後はどうか知らんが。

「わたくしたちもあの頃、皆あなたに憧れていたものです。あなたの殺しはまさに芸術だった。あなたが殺った死体を見る度、歓喜と戦慄で体がうち震えましたねぇ」

「むー……」

 訳。(変態……)

 芸術と来たか。シュンセツ先生が聞いたら何と言うだろう。

「あくまで惚けるんなら、それはそれでいいんですよ。他にも王女を探す方法

はありますし――何より、あなたが“赤蠍”だというそのことだけで、充分に倒す価値がある。そして我々は勝利に手段を問わない。あなたもよぉく御存じの通りです」

 剣を再び握り直す“蜻蛉”。

「まずは武器を捨ててもらうとしましょうか。あ、両手を上に挙げるのも忘れずに」

 少し考えが甘かったかもな。この男は、まともじゃない。

「さあ、どうしました?」

 黒い刃が、光を反射した。ユーアの喉にわずかに血の線がにじむ。

 俺は、懐の中の物を全て投げ捨てた。

「んむっ!?」

 ユーアが、そして“蜻蛉”が意外そうな表情を浮かべた。

「いや……ただ形式的に言ったまでだったんですが。まさか従ってくれるとは思いませんでしたよ……」

 奴はユーアから離れ、数歩前に出た。剣の腹で、左の掌をペシペシ叩きながら言う。

「では――どちらから殺すことにしましょうねぇ」

「むーっむーっ!」

 俺はゆっくり両手を天にかざした。

「む……」

 ユーア。

 視線が交わった。

 勘違いするなよ。俺はあきらめはしない。

 真上に挙げられた俺の手の中には、ポケットに入っていた小石がこっそりと握られている。あとは、機会を待つだけだ……。

「待ちなさい!」

 背後から誰かが叫んだ。この声は――ホタル?

 首だけ回して後ろを見た。ハヅキと、彼を支えるホタルの姿。

「あなたの目的は私の筈です。その方たちに危害を加えることは、王国の名において許しません!」

 “蜻蛉”は舐めるようにホタルを眺め、にたりと不気味に笑う。

「なるほど。まさか髪を切って男装なされていたとは……探してもなかなか見つからなかったわけですねぇ」

 なっ……。

 くそ、俺は世界一の大馬鹿野郎だ。何故気付かなかったんだ。ヒントは山ほどあったのに。

 裸を人に見せたがらなかったこと。

 世間知らずなこと。

 混血種であること。

 会ったことのあるシュンセツの前で一度も女姿を取らなかったこと。

 目の見えないヴィネがお嬢ちゃんと呼んだこと。

 全てのピースが合わさっていく。

「何しろ我々の持つ手掛かりは、容姿を除くとせいぜい、身に付けておられた王族特有の細工の首飾りぐらいでしたからね。ジュトウとかいう鍛冶屋さんから、麒麟亭にその首飾りを持った踊り子がいるとさりげなく聞き出せたのは、まさに幸運でした」

 …………。

 ジュトウの野郎め。

 訂正しよう。俺は世界で二番目の大馬鹿野郎に過ぎないようだ。

「それでこうやって酒場の御主人の隗・サァト・リオマ氏を呼び出したわけですが、王女様自ら来て頂けるとは光栄です。正直申しまして、これほどやってくれるとは思いませんでしたよ、妃殿下。我々の襲撃から逃れ、今日まで見事に身を隠しておられたんですものねぇ」

 “蜻蛉”はいい気になってべらべら喋っている。

 あれ? そう言えば……。

「ホタル、いや王女さん、よくここがわかったな。俺に追いつけたとは思えないが」

「街の人たちに尋ねただけです。ポットを抱えた男がどっちへ行ったか、って」

 その手があったか。なるほど、目立っていたからな。

「この期に及んで世間話ですか。まあいいですけどね。では王女、そろそろこちらへ……大丈夫です。なるたけ痛くはしませんから」

 そこまで語り、“蜻蛉”は俺の顔を見た。

「抵抗するなら今のうちですよ、“赤蠍”。あなたならこの状況でもわたくしを殺せるでしょう。人質の生死さえ気にしなければ」

 だが俺は動かない。

 “蜻蛉”が首を振りながら言った。

「……わかりませんね。さっぱり理解出来ませんよ。何故そこまで赤の他人の小娘にこだわるんです? ――恋人さえも、自らの手で殺したあなたが」

 ユーアが驚きに目を見開いた。

 “蜻蛉”はそのユーアに話しかけるように言う。

「そう、この人は自分の恋人だった女を殺す依頼を受け、そしてそれを実行し

たのです。いやぁ、全く暗殺針の鑑ですよ。もっともそれきり足を洗い、姿を消してしまったんですがね」

 その台詞を聞いても、今の俺の心はピクリとも動かなかった。

 何の事はない。冷酷な殺戮人形とは、俺自身のことだったのだ。

 チャンスだな。平静な心のままそう考える。

 ユーアも王女も殺させはしない。無論俺も死ぬつもりはさらさらない。

戦いにおいて重要なこと。それは自分の力をいかに発揮するかではなく、相手の力を最低限に抑えることだ。

 奴は長ったらしい演説で精神を高揚させている。注意力も判断力も低下しているだろう。

 十の傷を受けて百の打撃を与えるよりも、無傷での一太刀を求めるべし。一もいずれは百になる。

「これだけ言ってもかかってきてくれないのですか」

 段々と苛立たしげになってくる“蜻蛉”。

「いくら良い子ぶってもねぇ、駄目なんですよ。一度血の味を憶えた者は、そこから抜け出すことは出来ないものです。血の匂い、肉を切る感触、断末魔の悲鳴――そんなものが全部、まだこびりついてるんじゃないですか、あなたにも」

 …………。

「わたくしを幻滅させないで下さいっ、“赤蠍”!」

――今だ!

 最小限の手首の動きで、気付かれぬよう小石を放り投げる。少しの時を置き、“蜻蛉”の斜め後ろの辺りで、それが墓石に当たるカチンという音。

「!?」

 “蜻蛉”は思わずそちらに目をやる。注意がそれた。

 俺は足下を蹴り上げた。宙を舞う針を筒ごと掴み取り、そのまま奴に投げつける。

「“蜻蛉”、お前は三つの考え違いをしている! まず第一、俺は暗殺針から足を洗ったわけではない――最後の依頼がまだ継続されているだけだ」

 小さな円筒は“蜻蛉”の頬をかすめる。

 奴はよろけた。頬の小さな痛みのせいではなく、驚きのために。

 ほんのわずかなミスでも、圧倒的優位に立っていた者にとっては、大きな精神の動揺をもたらす。

 俺は一気に奴との距離を詰める。

「ハヅキっ」

 短く叫ぶ。

 風を切る音。意を汲み取ってもらえたようだ。

 飛んできた脇差を、走りながら手をのばして掴む。

 柄を握り、鞘を振り抜く。

「第二。俺の武器は針だけじゃない。単にそれが暗殺には適していただけのこと。剣の修行だって、さんざん積んできてるんだ」

 強く大地を蹴る。慌てて“蜻蛉”は剣を構える。

 その“蜻蛉”の横を、俺はすり抜けた。

「しまった! 女を……!?」

 俺が先にユーアを助けるつもりだと読んだのだろう。だが――

 反射的に振り向いた“蜻蛉”は、すれ違った直後に身をひるがえした俺と、鉢合った。

「なっ!?」

脇差を握ったまま、肘で奴の胸を突き放す。

 体勢を崩し、二、三歩後ずさる“蜻蛉”めがけ、俺は躊躇することなく刃を振り下ろした。

 懐かしい、確かな手応え。

 空中に赤色だけの虹を描いて、“蜻蛉”の右腕の肘から先が地に落ちた。一拍遅れ、宙に投げ出された黒い剣がすぐ隣に突き刺さる。

「最後に……人質ってのはよっぽど上手く使わない限り、敵よりも自分にとって足かせとなるってこった。ことに俺のような手練が相手ならな」

もう一度、今度は地面に向けて無造作に禍多泣(かたな)を振る。刃に付着した血が、露となって土の上に飛び散った。

 うずくまる“蜻蛉”を見下ろし、俺は静かに言う。

「その腕ではもう殺しは出来まい。故郷にでも帰って大人しく暮らすんだな」

 終わりだ。俺の勝ち。

 目の前の敵を眺めるうちに、感情が戻ってくる。

 怒り? 何に対して?

 はっきりしてくる。想いがこみ上げる。

――貴様程度の腕の相手に、あっさり殺られるぐらいなら苦労しない! 中途

半端に俺に手を出すな、やるなら責任持って殺せ! いっそ死なせろ!! いっそ……。

 息を吸い、吐く。激情を追い払う。

 “蜻蛉”は立ち上がる。左手で、腕の切断面の少し上を強く押さえながら。

「くっ……くっふふふ……」

 その口から、笑いが漏れた。

「流石です、流石は……“赤蠍”」

 そのまま走りだす。塀を乗り越え、森の中へと消えた。

 そちらには目もくれず、俺はユーアに近付く。縄をほどいてやる。

 ユーアは目を伏せ、俺の胸に飛び込んできた。

「おい、猿ぐつわぐらい自分で外せよ……おい? 泣いてんのか?」

 ハヅキと王女が来る。

「逃がしちまったの、悪いことしたかな、ハヅキ」

「いや、お主には感謝の言葉も無い。“蜻蛉”のことなら、また追いかければ済む」

「ありがとうございます、リオマ様……」

「様? よしてくれホタル――じゃなくて姫さん。あんたにゃ、すっかりだまされたよ。ロクな大人にならないんじゃないか? このペテン師」

 俺はユーアの髪を撫でてやりながら軽口を叩く。

「リオマお兄ちゃんに言われたくないよっ」

 『王女様』は、ニッコリとそう言った。





 成人を控え、各地をお忍びで視察して回るという習わしが、王族の間ではあるそうだ。 それに対して、ギルドがちょっかいを出してきた。

 王女を亡き者にしてどうするつもりだったのか。誰の依頼だったのか。それは俺には関係ないことだ。

 一人逃げ延びた彼女は、男装を考える。十五の少女から十二、三の少年への変装はたやすい。しかもその上、敢えて女姿をさらし、それを女装だと言うことでより嘘を固める。俺はまんまとひっかかってしまったわけだ。

「あのカツラや衣装はどうしたんだ、いったい」

 俺はそう問う。麒麟亭の玄関。別れの時が迫っている。

「旅芸人の一座にいたのは本当です。三日ほどだけですけど。そうそう、あの方たちに後で代金を払っておかないと」

 ここカディアルから少し離れた街で襲われた王女は、旅芸人や隊商にまぎれてこの街にやって来、俺たちと出会ったということらしい。

「じゃあ……見事すぎる踊りだの、とんでもない演技力のお芝居だの、何処で身に付けたんだ?」

「王宮ですわ。なにぶん、『働かなくても食っていけるヒマ人』なものですから」

 そう答え、思い出したようにクスクス笑う。

「――妃殿下。それよりも何故、真先に我らの所においでにならなかったのです」

 ハヅキは不服そうだ。俺が代わって言ってやる。

「選り抜きの親衛隊が全滅してんだろ。この姫さんは心配したんだよ。自分の身よりもむしろ、お前ら沙邑尉(さむらい)まで狙われることを」

 だから身分を明かさず、自分一人で誰にも頼らず乗り切ろうとした。

 この子だけが特別なのだろうか。それとも、王族というだけで全てを憎むのは、やはり間違っているというのか……。

「本当に、お世話になりました。リオマさんとユーアさんの事は決して忘れません。そして、この街の皆さんのことも」

 優雅に礼をして馬車に乗り込む。

「また何処かでお会いしましょう。リオマさん……」

 いずれにせよ、彼女がもっと大人になる頃にはこの国も変わることだろう。

 馬のいななきと共に、車輪が回りだす。

 土煙がおさまるのを待ち、ユーアに話しかける。さっきから少し様子がおかしい。別れのせいだろうか。

「ユーア――お前、確かホタルと一緒に風呂に入らなかったっけ」

 こいつだったら裸を見ても気付かない可能性もあるが。

「あの時に私には教えてくれてたんですよ、王女様。びっくりしましたけどね」

 え?

「リオマさんにも話そうとしたんです。でもその前に王族の悪口を持ち出されて、言いそびれちゃって…」

 そんなこともあったっけ。

「普通、同じ家で生活してればいつかはバレるんでしょうけど、リオマさんはホタルくんのこと私に任せっきりだったから。かえって都合が良かったかも知れませんね」

 馬車がどんどん小さくなっていく。最後の疑問を口にする。

「ホタルって名乗ったのは、何か意味があったんだろうか?」

 蛍。

「王女ですもの……。あの子は明るい昼間に輝く太陽より、たとえどんな幽かな光でも、暗闇を照らしてあげられる蛍になりたかったんじゃないかな。もしかしたら」

 毎日決まった道を動く太陽。

自由に飛び回る幽かな光の蛍。

「『明るい昼間に輝く太陽』の辺り、論理に少々矛盾を感じるが――それが、正解か」

 ようやく、涼しく物憂げな秋の風が吹き始めてきていた。


  

Posted by 白川 嘘一郎 at 21:53Comments(0)

2010年09月27日

◇ 伍、 ようこそ麒麟亭へ


 どうもユーアの様子がおかしい。昨日からだ。

「さらわれたのがショックだったのかな。それともホタルと別れたことか……。どう思う、サキョウ?」

 ついさっきまで大工仕事に使っていた金槌を片付け、テーブルの上に頬杖を突いて俺は言った。

 返答なし。

「なんだよ。まだ怒ってんのか」

 ホタルらが去った後、サキョウを置き忘れてきたことに気付いた頃には、すでに陽はとっぷりと暮れていた。

<当たり前や! あれだけ言ってほんまに忘れられたらシャレならんわ!>

「へいへい、悪うござんした」

<お前が死んだら、シュウやケニィに顔向け出けへん思て、心配したで>

 俺の祖父と父の名前である。

<まあ、墓場を選んだんが奴らの失敗やな>

「じいさんと親父が守ってくれた、とでも?」

<この世の中、何でもアリやからな>

――喋るティーポットだけで、充分異常だもんな……。

 いつの間にか本題からずれてしまっていた。

 頃良く、洗濯物を干していたユーアが戻ってくる。

 深くため息をついたりする。ぼんやりしている。

 やっぱり変だ。

「おーい。ユーア、大丈夫かお前?」

「……あ、リオマさん……お茶でも淹れましょうか……?」

 虚ろに呟く彼女。

 俺はこれまでずっと、一人だった。

 だが彼女が来てから麒麟亭は変わった。今、ホタルがいなくなり、ユーアの笑いが途絶えることで、俺は一人きり以上の孤独と寂しさを味わっている。

 妙な雰囲気だ。彼女の気分が周りに影響している。俺にも、また。

「はい、どうぞ」

 サキョウからティーカップに注いだ紅茶を、ユーアは俺の前に置いた。心なしか、その細い腕が震えているように思った。

 一口すする。

――? この味は……!

 俺は含んだ紅茶を床に吐き出した。

「おいユーア、今隠した物を出せ」

 きびすを返しかけた彼女が、足を止めた。

「この家の何処で見つけてきたか知らんが、お前がこの中に入れたのは毒薬だ。間違っても砂糖やレモンの汁なんかじゃないぞ」

「……わかってます」

ユーアは食器棚の抽斗を開け、その奥から布にくるまれた細長い物を引っ張り出した。

 こないだの剣だ。いつの間にあんな所に。

「やっぱり気付かれちゃいましたね。出来れば毒で死んで欲しかったんですけど。ここを汚したくありませんから……」

 布を取り去り、剣を抜く。ボロボロに錆びた刀身。こびりついた褐色のもの。

<何をする気や、ユーアちゃん!>

 ユーアは黙ってサキョウに鍋をかぶせて静かにさせる。

<……! ……!!>

 そうして彼女は剣の切っ先を、椅子に座ったままの俺の喉元に突きつけた。

「この剣が斬った相手、見れば想像が付きます。こうやっていつまでも残しておくことがあなたの愛情なんですか?」

 サユミ。

 血を拭わなかったのは、あの『約束』をいつまでも忘れられないようにするためだ。

「せめてこの剣で死なせてあげるわ。“赤蠍”(スコーピオン)

 ユーアは竜の肌のような、固くザラついた声で言う。

「何の、つもりだ?」

「本名を名乗った時、気付いてくれるかと思ってましたけど……そうですよね、いちいち『お仕事』の相手の名前なんて憶えてませんよね、リオマさんは」

 彼女の瞳に涙が浮かんだ。

「私は鈴・ラクステイア・ユーア。あなたに殺された鈴・レマルクの娘です」

 彼女はその涙を俺に見せぬように、精一杯毅然と言う。

 鈴・レマルク。

 思い出した。奴の名。サユミの両親を殺した男。

 そして、奴は、俺の手で……。

 ではユーアは、最初から復讐のために俺に近付いたのか?

「大体、飲み込んでもらえたようですね」

「ああ。毒入り紅茶はともかく、お前の素性のほうはな。しかし俺を殺す気なら、もっと前に機会があっただろう? 正直、俺はお前のほうが王女だと思ってたんだぜ」

「最初は……ホントに偶然だったんです。行き倒れてリオマさんに助けられたのも」

 剣先はまだ、俺に向けられたままだ。

「もう五年ですね。父が殺されてから。――リオマさん、何故、父を?」

「お前の親父は、成り上がるためにかなり汚いことをやってきた。恨まれる相手の数はそれに正比例する」

 俺もその中に含まれる。直接の依頼主は誰か知らんが。

「たとえそうだったとしても、私にとっては優しいたった一人の父でした。母を早くに亡くしていましたし。その父が死んで、家は体よく乗っ取られ、私は一人ぼっちになった」

 五年前。

 あの時俺が助けた少女は、ユーアだったのか。

 ユーアは自嘲するように唇を歪めた。

「髪を切ったリオマさんを見た時に思い出しました。私を蛇から助けてくれた人だって。『何故あの人は私の家の庭にいたんだろう。ひょっとしてあの人が……』。そう思わなかったわけじゃない。でも、一晩で全てを失った少女が、自分を救ったその人の面影だけを心の支えにして生きてきたって、誰も責められませんよね……?」

 柄を握ったユーアの指が、力を入れるあまり白くなっている。

 俺は口を開かない。

「だけど、あなたは……」

 彼女はそこで言葉を切った。だがその後はわかっている。

俺は、暗殺針(アサッシン)だった。

「父を殺されたあの日、私は幼心に犯人への復讐を誓った。それから、あなたのいた裏の世界の、そのまた裏を生きてきた。父を殺した暗殺針を――あなたを殺すために、魂さえも血に染めた」

 ようやく、悟った。

 俺がユーアに惹かれていた理由を。

 奇妙な親近感を感じていた理由を。

 彼女は俺と同じ道を辿ってきたのだ。

「地獄のような日々でした。鬼が棲む場所を地獄と定義するならば」

 ユーアは、片手で胸元をはだけた。

 透き通るような白い肌に――醜く走る無数の傷痕。

「血と屍に囲まれて目覚める朝もあった。男たちの慰みものになる夜もあった……。あな たにはひどいことを言ったけど、私も人殺しの仲間。そんな暮らしを続けるうちにこの街に流れ着いた」

 服の襟を直し、彼女は続ける。

「二度もあなたに助けられて、これは運命だと感じた。麒麟亭で働いた日々は楽しかった 自分にまたこんな幸福な暮らしが出来るなんて、想像してもみなかった。父の仇だとわかっても、あなたなら許せると思った。あなたが私を受け止めてくれるなら、復讐を忘れられると思った。だけど、だけど……!」

 堪えきれなくなった涙が、ユーアの頬を伝った。

「あの暗殺針の話を聞いて……そしてあなたの戦う姿を見て……気付きました。あなたはやっぱり普通に暮らしていける人じゃない。あなたは、表情一つ変えずに人を殺せる人間――暗殺針“赤蠍”」

 ユーアが左手を右手に添える。

「悩みました。何度も決心を変えようとしました。でも、やっぱり私は、あなたを殺すしかないんです!」

 両の手で刃を俺の首に押し当てる。

 『殺す』。

 それは恐らく、人の歴史の中で最も多く叫ばれてきた言葉だろう。哀しいことに。

「……どうした? 斬らないのか?」

「……リオマさんがテーブルの下で私を狙ってる針をどけてくれたら、そうしてもいいですけど」

 俺は言われた通りに針を投げ出した。

 こいつに殺されるんなら、それもまた……。

「錆びた刃とお前の力じゃ、俺の首を落とせんだろう。正面から喉を突け。そのほうが早く終わる」

「リオマさん……」

 俺は目を閉じる。

 サユミ、どうやら『約束』は守りきれそうだ。俺の一生がここで終わるなら。

 剣が床に転がる音がした。

 瞼を押し上げ、光を採り入れる。

「ユーア?」

「どうして……五年前のあの日、私を助けたんですか……人殺しのくせに……昨日だって、私のために……」

 絞り出すように言う。

「そうでなきゃ――ためらわずにあなたを殺せたのに!」

 くるりと背を向けるユーア。

「やっぱり、あの日に出て行くべきでしたね。安心して下さい、もう戻って来ませんから……」

「殺さないのは、俺への思いやりにはならんぞ」

 あるいは、最も痛烈な復讐かも知れない。俺にとっては。

「当たり前でしょう。親の仇に情けをかけるバカが何処にいるんですか……」

 ユーアは閉ざされた扉の前で立ち止まった。

「そんなバカな女なら……今も、引き留めて欲しいとでも思ってるかも知れませんね……殺そうとした男に、自分を呼び止めてもらいたいと……そして、一緒に……」

 ユーアはそう言うと、自分の言葉を忘れようとするかのように軽く首を振り、ノブに手をかけようとした。

 そうする前に、扉が開いた。

「――!」

 飛び込んできた男はユーアの体を左腕で動けぬように押さえつけた。右腕で刃を彼女に突きつける。

 いや、それは腕ではない。

 失った肘から先に、剣をくくりつけて固定してあるのだ。

「貴様……故郷に帰れと言った筈だ」

「なぁに、少し忘れ物をしただけですよ。それが済めばすぐに帰ります」

 “蜻蛉(かげろう)”。

「暗殺針はやめることにしました。確かにこの腕では、きついでしょうからね。ただその前に、仕事とは無関係にあなたと決着を付けておきたかった。おっと、今のわたくしにいつもの麻痺毒は効きませんよ。破毒剤を呑んでありますから。即死毒の類いなら別ですがね」

 意味ありげな台詞。

 呆れ返るほどしつこい野郎だ。

「昨日わたくしと戦った相手は結局、麒麟亭の隗・サァトに過ぎなかった。“赤蠍”を呼び起こすところまではいかなかったんですよ」

「その通り。だが、俺が眠らせたサソリより、隗・サァト・リオマのほうが強いかも知れんぜ」

 そう、今の俺には……。

「守るものがあるから、ですか? ひどく月並みな台詞ではありますが、それも確かに考えられます。だからこそはっきりさせに来たんです、あなたの力を」

 “蜻蛉”は一度刃をユーアから離し、自らの腰に下げた袋の紐を断ち切った。

 鈍い音を床に響かせ、それが落ちる。包みがほどけ中の物があらわになる。

 鉢植えの、小さな花。

「何だ、そりゃ?」

「見ての通り、わたくしが育てている花ですよ。名前なんかは知りませんけどね。――毎日毎日、水をやる。わたくしが生きている限り。『仕事』を無事に終え住処に帰った時など、こいつを見るのがただ一つの楽しみでしてねぇ。綺麗だとかいい香りがするとかそういったことではありません。わたくしが死ねば、この花も枯れる。大袈裟ですが、わたくしの『生きた証』というところですか」

「そいつを、賭けるってわけか」

 “蜻蛉”は嬉しそうに微笑んだ。

「流石、お察しが早い。勿論あなたにも賭けてもらいますよ、この麒麟亭を。あなたの大切な家族の想いが詰まった店、このお嬢さん、ここに呑みに来る馬鹿なお友だち連中……。それがあなたの守るもの。あなたが負ければ、そうですね、建物ごと燃やすことにでもしましょうかねぇ」

「――俺は、あり得ない仮定で話を進める奴は嫌いなんだ」

 俺は静かに椅子から立ち上がった。

「おっと、そう急がないで下さい。まだお話ししておきたいことがあるんですよ。わたくしは今まであなたの人間性を見誤っていました。昨日あれから、ギルドの上層部に問い合わせて調べさせて頂きましたが」

 言いながら、再び刃をユーアに向ける。ユーアは自分の身に起こったことを理解すると、ただ黙って目を閉じていた。

「あなたの受けた最後の依頼――恋人を殺したというのは、決してあなたの冷酷さを物語るものではなかったんですねぇ。お嬢さんも良く聞いておいて下さい。涙無しでは語れない、感動的な美談なんですから」

 身体中がざわつくのを感じた。

「その仕事を依頼したのは他ならぬあなたの恋人――サユミさん自身だった。彼女は不治の病を患っていたそうですね。苦しみながら死ぬよりはいっそ愛するあなたの手で……ってわけですか。いやはや、いいお話です。――また、その依頼には条件が付いてました。彼女を最後にあなたは人を殺さなくなった。いや、殺せなくなった。なにせ恋人との最後の『約束』ですからね」

 ユーアがうつむいた。涙の残りがこぼれていった。

「あなたはこの真実を隠そうとしていた。冷酷であり続けようとした。恋人が自分のために死んだと思いたくなかったんでしょうか? 確かにそれよりは、『仕事』のため仕方なく殺したと信じ込むほうが重荷は少なくなります」

「“蜻蛉”……!」

「でも、あなたはもはや毒を抜かれてしまった。ある意味では、サユミさんのほうが残酷ですよねぇ」

 奴の言葉に、俺の中で凍っていた刻が融けて流れだす。

 「あなたは怒りによって剛くなり、そして迷いによって強くなった。わたくしが見たいのは、強くなった隗・サァトが、なおかつサソリの猛毒を取り戻した姿です」

 サユミ……。

 奴は触れてはいけないものに触れてしまった。

 約束……破っちまうかも知れない。

「そこまで言うなら戻ってやるぜっ! “赤蠍”に!!」

 針を握る。

 その時、“蜻蛉”の目を盗み、ユーアが服に忍ばせた小さな短剣を抜くのが見えた。

 まさか――

「いけないっ、リオマさん!」

 光る刃が、“蜻蛉”の喉ぶえに埋め込まれた。

 鮮血。

「……!?」

 “蜻蛉”の声にならない叫びが虚空を貫いた。ユーアの足下に崩れ落ちる。

 真紅の返り血に彩られた凄艶な笑顔で、ユーアは呟くように言った。

「リオマさんが殺しちゃいけないわ……約束なんでしょ、恋人さんとの」

 短剣が下に落ちる。

――馬鹿野郎!

 俺はユーアに駈け寄った。両腕で胸の中に彼女を捕らえる。

「やっぱり、“蜻蛉”が言った通りだったわ。一度血の味を憶えた者は、もうそこから抜け出ることは出来ない。私は、リオマさんみたいに、強くない……」

 ユーアは俺の胸に額を押しつけた。

「サユミさんって……どんな人だったんですか……?」

 途絶えそうな、問い。

 ユーア。

 サユミは……お前みたいに明るくて、それでいて寂しげで、そしてバカな女だった。

『リオマ、私を殺して……私を最後に二度と人を殺めないで……』

 あの時、サユミはそう言って微笑んだ。記憶の中のその微笑みが、さっきのユーアの笑顔にダブる。

 バカな女だ……バカな……。

 俺にあんな嘘が通じるとでも思っていたのだろうか。

 

二六刻(にろくどき)中、一緒にいたんだ。

――あんなに元気だったお前が本当に病気かどうか、一目見りゃわかるだろうが!

 俺みたいな男を奈落から救い出すために、自ら死を選んだ……命を賭して俺の間違いを正そうとした……バカな女。

「ユーア……」

 だが、俺もバカだ。

 四年も経って、ようやくサユミの気持ちがわかった。

 もう迷わない。過去に縛られたりはしない。

 ユーアを抱いた腕に力をこめた。

「……俺を殺せ、ユーア。そして二度と人を殺めるな……」

 サユミがしたように、今度は俺がユーアを救わねばならない。

 ユーアが、俺を突き放した。

「リオマさん……いつも無理なことばかり言う……」

 夢遊病患者のような足取りでテーブルに近付き、俺のいた席に腰掛ける。

 ユーアの考えに気が付くまで、少し時間を必要とした。

 彼女はティーカップを手に取った。

 しまった!

「ユーア、やめろっ!?」

 パキン。

 場違いな音が、静まり返ったその場に響いた。

「……。上手く修理出来たと思ったんだがな」

 クギの打ち方が甘かったか。安堵のせいか、緊迫感の無い思考。

 脚が取れた椅子と、床に転がるユーア。割れたティーカップ。

 ユーアに歩み寄り、手を差しのべた。わずかなためらいの後、彼女は俺の顔を見上げ、その俺の手を強く握りしめた。

 ユーアを引っ張り起こす。血と紅茶にまみれた顔を手拭いで拭いてやり、もう一度その体を抱きしめる。

 彼女の耳元で囁いた。

――それは多分、人の歴史の中で、最も多く囁かれてきた言葉。

 彼女が身を震わせる。

「私なんかにそんなこと言って、いいんですか……私バカだから、信じちゃいますよ……?」






 “蜻蛉”の死体は、役人に引き渡した。ハヅキから手配がまわっていたのだろう。深い追求は無かった。

 床の血痕を拭き取る。平和な麒麟亭を取り戻すために。

 ユーアがぽつんと言った。

「父は、昔からあんな人だったわけじゃないんです。人から聞いた話ですけど……」

 ついさっき、俺は彼女に語ったのだ。自分の過去を全て。

「父には母の前に愛した人がいたんです。その女性はミラ人で、二人は引き裂かれて……それから父は、何かにとり憑かれたように混血狩りを……」」

 彼女には申し訳ないが、それを聞いても今さら感傷めいた気持ちは湧いてこなかった。とっくの昔に気づいていたのだ。俺が殺しに手を染めたように、ユーアが俺に復讐を誓ったように、誰だって歪むには歪むなりの理由があり、そうやって傷口から傷口へと憎しみを含んだどす黒い血は受け渡されていくものなのだと。

 それは言い訳にはならない。免罪符にもならない。まして憎悪を封じ込める大義名分にも。

 ならば、どうすればその連鎖を止める事が出来るのだろう。

 いくら血痕を拭っても、臭いと染みは完全には消せない。俺はそれでも床を擦り続ける。

 ユーアが静かに席を立ち、テーブルに置かれたカップに熱く湯気の立つお茶を注いだ。

「リオマさん。私はやっぱり、まだあなたを許せないと思います。だから――」

 そして、もう一つのカップにも。

「――あなたを許せるようになるまで、傍にいたいです」

 一時凌ぎで姑息な、何の解決にもならない解決法。だが、抗う手段を俺は持ち合わせていなかった。

 ユーアがぎこちなく微笑むと、示し合わせたように俺たちは互いの椅子に腰を下ろし、そして俺は改めて彼女に言った。



 「ようこそ、麒麟亭へ」――と。








-終-


  

Posted by 白川 嘘一郎 at 22:00Comments(0)